手紙 36

多くの場合、審判のときが来るというのは優しい幻想であって、もしそうであったなら人の生ははっきりした輪郭で縁取られて、ある程度過ごしやすいものになる。自分が裁かれる法廷を要求するのは、不遜な態度のように感じられる。なぜかといえば、どのような判決を受けるにせよ、裁かれないよりはましだから。地獄に落ちるのは、そもそも判決の場が存在しないよりは、楽である。しあわせといってもよい。地獄は恐るべきものではない。より恐怖を人に与えるのは地獄の不在である。

戦争も諍いも絶えないのがこの世の現状だけれども、もし本気で、つまり最も効果的な仕方で、勝利を目指すのであれば、かつて兵法家が言ったように、決着は争いの前に行われるべきであり、暴力は次善であるし、行為が生じないのが完全なやり方であり、そこには争いがない以上勝利も敗北もなく、ただ深い、どうしようもなく深い、困惑があって、それが人にとっては致命的なので、そのような仕方がより効率的な破滅への誘導となる。爆弾でも人は殺せるが、範囲は限定的であるし、肉体の殺傷は、根本的には的外れであって、本当に目指すのであれば、鉄の弾丸を置き、隣人に話しかけるべきである。「地獄はあるのだろうか」と。

そのように行為する者こそ、真に共同体にとって危惧すべき者であり、敵である。本能的な鋭さで人々はこうした脅威を察知するので、かつて賢人たちの身に起こったように、危険は早々に摘み取られる。彼らが言うことが真であるからではなくて、自分たちの生活にとって危険であるから、排除に動くのである。その言説の射程が広いほど、危険度は上がるのであり、最後まで見通す視力のない民も、自分の命の危険だけは驚くべき鋭敏さで感じ取り、その日の食を得るために槍で鹿を狩るのと同じ熱心さで、疑いのなさで、純乎(じゅんこ)として刺す。

正義はどちらの側にあるのだろうか。刺す側か刺される側か。どちらにも譲れない言い分があるので、弁論での決着はつかないだろう。世間的にはであるから、より力の強い方が勝つので、それはそれで一種の人間らしいやりとりであって、たのしい見世物として、わたしたちの耳目を喜ばせる一幕となる。ただ以上を踏まえた上で、もし今わたしたちがそうした舞台に飽きを感じてきたのであれば、そうした出し物がかつてのようにわたしたちの心を乱し、一種の愉悦を与えず、したがって暇つぶしの種にもならないほどに退屈なのであれば、そうした時が今なのであれば、この大衆の変化にはもっとよく着目するのがよいかもしれない。

今や人が望むのは、それがどういう原因によって生じたかはともかくとして、誰かの血潮ではなく、糾弾や喧騒ではなく、沈黙であり、炸裂する爆弾ではなく、静かに確実に息の根を止めるような形のない武器であり、生活の存続よりは、むしろかくある生活の真の破壊であり、その先になにかよりよいものがあるから現在あるものをまず壊すのではなくて、たぶんその先にあるものがなにかはわからないし、なんなら自分たちのしていることが善いことか悪いことか、見当すらついていないままで、それでももはや今までの生活様式の維持は我慢できないので、本当の意味での破滅へと突進するのが今という時なので、であれば審判の時というのはある意味では今なのであり、わたしたちが現実的に自己を破壊することができる可能性が照らされている。

とはいえ、人は方法を知らないので、どこへ突進したらよいかわからない。進みたいとは思うが、知らないので、そこでじっと立ち止まっていられればよいかもしれないが、内なる意欲は地の中に貯まった溶岩のようで、噴出をせき止める努力の限界は割と早く来るので、動かざるを得ず、結果として行動は支離滅裂となる。争いだって起こるわけだが、このような状況を鑑みれば、それは仕方のないことと見なされる。地獄の使者が現れるのであれば、羊たちは心から歓迎する。救世主が現れても同じように歓迎する。そういう意味では人々はあまり変わっていないので、時が少しだけ、その色合いを変化させたと、そんな風に語るのがもっともらしいのかもしれない。

2026.03.14

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