さて本日も、こうして本日を迎えられたことはまさに僥倖というべき一種の事態なのですが、あるいは最悪の処遇というべきなのかも知れませんが、わたしはここにいる、このことをどのように見て、どのように感じて、どのように捉えて行くことができるか、わたしたちのはじまりはすでに謎のかたまりであり、おそらく不明であるということ自体もすでに一種の解釈なのであり、ここにはしたがって立脚できるような真理は見つからず、ただ微風が頬をなで、そして彼は微笑むのでありましょう。
彼ほど何もわかっていない人間も稀なのですが、放棄もできず、進んで取ることもできず、かと言って存在する(ex-isto)もしくは消滅することもできないので、楽しいわけではありませんが、最終的にほほ笑む他なく、これはなにか不思議な微笑、感情のない微笑、表現としての微笑ではない表情です。
彼は何らかの顔である他ありません。それがどのような顔であるか、それは決められるものではありませんが、ともあれ彼は特定の顔としてそこにあるしかありません。これは彼にとっては屈辱であり、恥辱でしょうか。彼に尊厳はあるのでしょうか。自由はあるのでしょうか。強いられたわけではありません。強いる何かを措定するのは、物語りの効能であって、それはずっと後の話です。
顔には色があります。あらざるをえません。これがわたしが引き受けなければならないことで、これがわたしがあるということのひとつの現れですが、色を見る目の側で、様々な色眼鏡をかけて見るのですから、様相としては少し複雑でもあります。人間はいるのでしょうか。あり得るのでしょうか。しかしこれは正しい問いなのでしょうか。
叩けば扉が開かれるというよりは、すでに叩く扉が目の前にあることが問題です。問題は解決されてしまうのであって、解答は与えられてしまうのであって、扉が目の前にあるという事態に人は立ちすくまねばならないのであって、扉に手をかけつつ人は戦慄しなければならないのであって、その先に何が待っていようと、その果実を両手で受け止めねばならないので、腹は満たされつつ、涙が伝うことになるでしょう。
塩の跡は残るとしても、涙は乾き、人は満足しつつ、動き回ることになるでしょう。これがわたしたちに与えられた罰なのでしょうか。どのような貌であろうと大差はありますまい。高貴な顔というのは形容矛盾であって、子供らしい夢想に過ぎません。自分自身の在り方を問い詰めた先にあるのは、途中離脱かもしくは安易な決めつけか、どちらかではないでしょうか。
身体的な自傷行為に至ることもあるでしょう。これは言葉によって自分を傷つけることがかなわないので、代替として別のものに矛先が向かう結果ですが、このときもし彼が本来ナイフを突きつけた当のものがまったく無傷なままであるのを見てとるのであれば、立ち止まったまま、彼は戦い方に関して疑念を抱くでしょう。戦うことができない相手といかにして相対するかという問題が彼を悩ませます。ここから彼の方法が生まれるでしょう、もし生まれるならですが。
先回りされていて、出し抜くことができない状況で、何ができるかということです。何をやったとしても、それがわたしの行為になってしまう状況で、どのようにわたしを離れられるかということです。歴史に逃げますか。しかしそれも実につまらない方向です。もしそれが隠れた目論見を持たない単なる広がりに過ぎないのであれば。正当な解釈の希求が道なのだとしたら、その道の両側に咲く花々は華やかで色とりどりでかなしいものであるでしょう。その道を歩みつつも、うつろな目は解釈ではない何かを求めてさまようのでしょう。
2026.05.09

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