手紙 41

「わたしたちの手紙」と、わたしはこの一連の文章を呼んでいて、特段深い意味を持たせるわけではありませんが、思われますのは、この文を綴るのは誰なのか、その綴り手は本当にわたしたちであるのか、ということであり、わたしたちは語ることがそもそもできるのか、わたしたちは、わたしたちが話していると思っているが、実はそのわたしたちは何らかの物や思念の集合に過ぎないのではないか。わたしたちはわたしたちとして語るのではなくて、いわば自身を何かに売り渡したままで、しかもそれに気が付かないままに、自分が語ると思っているだけなのではないか、本当は語る主体は単なる何かに過ぎないのに、ということが問題なので、このことがらを深刻に考えることができるかという問題なので、というのは、私は自分自身を問題とすることができるように思えますが、その時の自分というのは物であって、自分が自分であるような仕方での自分ではないので、最初から倒錯しているような進行なのかもしれず、すでに今この時点ですらこんなに多くの疑念がありますところ、無邪気に「私たちの手紙」と呼ぶのは、これは一種の勇気であって、そうありたいという願いであって、少しの涙と少しの蛮勇と無知の結果であって、この人間らしいかなしさにあふれた呼称の内に、すでにわたしたちが取り組むべき事柄が、明白に表出されていると見なされるので、実態に即して言うなら、「私たちの手紙」というよりは、「私たちの手紙(仮)」と表記した方が正直なのだと思います。まだ私たちの手紙には成っていないのかもしれません。

私たちは誰なのか。私たちは私たちとして語ることができるのか。これが問われます。この問いに答えられるなら、誰が命を惜しみましょう。昼に死すとも可です。私はどこにいるのか、どこかにいるのか、どこにもいないのか。私は私に成るのか。私は私であるのか。自由はあるのか。尊厳はあるのか。それとも鎖に繋がれた奴隷の空想なのか、夢なのか。わたしは誰なのか。

こうした問いは、固められた地盤から生じたのでして、突き固められた歩道の、ひび割れたすき間に芽吹いた青草に似て、道を行く人の足を止めるか、止めないまでも一瞬の注意を引くだけの違和感を起こさせます。舗装された道を靴を履いた足でどこかへ向かって歩く人が、もし草を目にとめるのであれば、それを可能性と呼ぶのは楽観的過ぎますでしょうか。小さな驚きの芽が枯れるか育つか、それはわかりませんが、少なくとも可能性があるのであれば、つまりそれが本当に可能性であるのであれば、問いの多くは答えられたといってよいでしょう。

実際わたしたちに余裕はなく、手持ちの武器も豊富でないので、たぶん問いは限定されねばならず、核心部分に切り分けねばならず、そうしてその核心について回答を求め、何らかの示唆が得られればそれで事足れりとしなければならないのかもしれません。それでもよいのです。ろれつの回らぬ人草の言うことに、どんな真剣な意味がありましょう。意味不明な叫び声が飛び交う中にこそ、わたしは回答を求めるのであって、その喧騒を超えたところに、確実な真実を求めるのではありません。それができればもちろんそうしますが、わたしのいる場所も、そして私自身も、そうした探求には耐えません。

わたしは塵のなかに可能性を探すのであり、塵はどこまでも塵なのであり、塵の中から光る宝石を探すのではなくて、塵の中に可能性があるかどうかを見つめたいのです。

2026.04.17

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