手紙 40

残念ながら、わたしは人間でしかなく、何らかの形象でしかなく、特定のあれであり、特定のこれでしかありません。これが残念なことなのかどうか、異論があるでしょうか。そうですね、判定は変わるかもしれませんが、そうですね、その評価は片寄っており、的を射ているものでもないかもしれませんが、もし私が残念と思うのであれば、そして私が今ここにそれを記述するのであれば、たぶん私は自分の感想に責任をもつべきですし、まずはじめに現れたその思いを、その当否はともかく、大切にした方がよいでしょう。その思いも一種の形ではありますから、ある視点で見れば、指や臓器と同じく、認めなければならない形なのでありましょう。

表現という言葉に私はつい過分な意味を持たせてしまいます。まるで形は表現ではないかのような言いぐさです。本当は具体的な物こそが表現なのかもしれませんのに、なのに私はそれは表現に過ぎないなどと言うのです。それを超えたものこそが肝腎だと言わんばかりに。そういう方の気持ちに寄り添えば、現世は表現に過ぎないのでして、しかも不完全なそれに過ぎません。

私自身が何であれ、それはどうでもよい問い方なのであって、というのはたとえ私が何であろうと、それ自体は全く関係のないことがらなのであって、解釈されないものは存在しないという言い様が当然と思われますので、それでも私というものは物なのであり形なのですから、つまりどうでもよいものなのですから、どのようであろうと関係がないものなのですから、したがって冒頭の感慨のごとく、残念ということに落ち着きます。生活の感想と言った方がよろしいでしょう。私も私以外の何者も、形があるものをひっくるめて現世と呼ぶのなら、現世は残念であり、関係のないものです。

形は形に過ぎない。私の手はどうしてこの手でなければならなかったのでしようか。どうして私には限りがあるのでしようか。どうして私はこの肉体なのでしょうか。あるいはこう言いたいのでしょう。私はこれでなければならないのでしょうか。私は自分の手を見つめます。それは手なのです。わたしは手なのです。いや、手ではないかもしれません。これは手ではないかもしれません。少なくとも手ではない可能性があると、そう言うことはできないでしょうか。言うことはできると思いますが、それでも私が手であるというかその物であるということからは離れられないのではないでしょうか。手という解釈が適切かどうかは場面に応じるというのは、日常生活の中で誰しもが経験することです。

むしろ私がかなしいのは、はじめに言った通り、それが手であるかはどうでもよいので、何らかのものであるということなのです。かたちがすでにある、少なくともそのように感じられるということなのです。しかも私がその形であるということなのです。これはなんという痛みでしょう。なんという衝撃でしょう。これが認識なのかはともかく、この体験は、負の感情を背負っています。そこには挫折があります。やるせなさがあります。わたしが何を目指そうと、何を求めようと、何を美しく感じ手を伸ばそうと、わたしはわたしでしかありませんので、言ってみれば、わたしはこの手を伸ばすしかないのです。それ以外にできません。なぜなら、わたしは手なのですから。手を伸ばしたときむしろそれが私なのです。

手というかたち、手という限界が、露わになるとき、それは断念であり、限界の認識であり、かなしみなのです。わたしは美を追いかけるしかないのですが、全身全霊で欲するしかないのですが、つまりそういうものが私であるのですが、ここにはすでに二つのかなしさがあって、ひとつはわたしがかたちあるものであるということ、つまり私に翼が生えていれば私は飛ぶでしょう、生えていなければ歩くでしょう、歩けなければ這うでしょう、いずれにせよ、そのいずれでしかありえない、ということ。そしてもうひとつは、私に姿を現す美は、美しいものなのであって、それは現れたものであって、何らかの形を取らざるを得ないのであって、それはもちろん美しいことに疑いの余地はないのですが、何らかの形あるものに過ぎない。

つまり、美すらも解釈された姿でしか私には見えないのです。いや見えはしないのですが、私が追いかけられるような美は、私のかたちに拠るのであって、反対にして言えば、私のかたちに応じた美しか、私には現れないのです。美という経験を分解して言うと以上のようになりましょう。自分のことを敷衍して言えば、人生の大半はおそらく真剣な暇つぶし以上ではなく、言い換えれば、本気の彷徨に他なりません。したがって全体として人の生は、かなしいものと見るべきでしょう。

2026.04.11

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