手紙 54

私たちはよくよく心得なければなりません。これはまず始めにはたしかに、戒めるという、なにか教訓的な説示のかたちを取って、晴れた空にかかる一片のちぎれ雲のように、私たちの心の表によぎる影として、注意を引くというだけの段階ですが、風と共に雲は気づけば消えるものですから、心に残る記憶と共に、どのように心得るかという、つまりどのように訓戒から先に進めて、成果へと至るかという、行動の設計が思考されねばなりません。

祈りも必要かもしれません。しかし一度祈った後は、その残像を胸に、煉瓦と粘土を手にして、建築作業を進めることになります。私たちが相手にするのは、見分けにくい敵であり、未知の土地を目指す大冒険ではなくて、既知の故郷に留まりつつしかもそこを超えてゆくという、言葉の限りにおいてとても難しいミッションなのです。

この企図の難しさを理解することがそもそも難しく、稀なことであり、ですがその点を知ることが、すなわちこの企画の出発点です。冒険の過程では通常様々な予想外の障碍が生じ、したがって旅は艱難辛苦の連続ということになるのですが、この場合、出発の地に立つことが一番の困難であり、つまりは旅に出るということからして難しいのですから、どうにか工夫をして、始められるようにしたいわけですが、始めることの可能性が問題になっているということを、まず事に即して了解することから始めねばならず、つまり出発地点に至るまでに、たいへん険しい関門をくぐり抜けねばなりませんので、私たちは旅路の艱難を想像することしか今はできませんし、生活に留まりつつ、どのようにして可能性を問うことのできる地に到れるか、この問いをしかも適切な仕方で理解し、できれば遂行しなければなりません。

この難しさは、わたしが今ここで記している字面が表すよりずっと困難だと思いますし、適した仕方で考えることが入り口なのではありますが、その端緒に至ることは稀であり、しかしどうしても至らねばならない場所なのであれば、私たちはよくよく心を落ち着けて、なにものにも頼ることなく、もちろん自分にも拠りかかることなく、しかもどこまでも自分である身でもって、一見不合理で不可能なこの行為を、断念することなく、つまり論理的なあるいは合理的な推論に惑わされることなく、似て非なるもののあふれるただ中で、しりぞけつつも乱暴に手で払うのではなくてやさしくそっと脇へどかすような、というのもその中には何か暗示的なものが含まれているかもしれず、またしりぞけるという判断に絶対の確信を持てるわけでもありませんから、そんな仕方でゆっくりと進まねばなりません。

その進むというのは、どこかを目指す道のりなのではなくて、その場に立ち尽くして在り続けるというような体かもしれません。ただ単に立つという、それだけのことが、私たちの状況においては役に立つのかもしれませんし、立ち姿というものに、否定と肯定がせめぎ合うのであれば、立っているのも容易なことではありません。詰まるところ、私たちが立つことができるのであれば、それは私たちの力ゆえというよりは、偶然の産物というか、恩恵であって、めぐみ、という他なく、あるいは不可思議とでも言う他ありません。

それでも私たちはここにいて、ここがどこなのか私はあえて穿鑿しようとはしませんが、つまり私は私の夢の中で、多くの誤謬に囲まれて、物笑いの種にしかならないような、そんな実態にあるという可能性も否定できないのですから、それでも言葉を綴るここにおいて、少なくとも私たちの問題が、一筋縄ではいかないものであること、有り難いものであることが、切実に感じられている限り、希望というか、端緒はあるような気がするのであり、課題として追いかけることもあるいはできるような、そんな妄想を抱くこともできるのであり、感情としては、絶望と同時に安心もあるのが実情であると私は告白しなければならず、すなわち、心の底では楽天的なところがあると認めねばなりません。この楽天は希望的観測によるというよりは、どうにもならないけれどもどうにかあらざるをえない事情から起こる、不可抗的な心持ちでありましょう。

2026.07.18

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