手紙 53

祭壇の前に、まず私たちは引き摺られて来て、立たせられる。そうしてここでは、口を閉じたままでいることは許されず、どうしても発言をしなければならない。語ることのできない者は顔を正面に向けて、見られなければならない。ごまかすことはできない。ごまかそうとすることはできるが、それもまた一つの表現と見なされる。結局のところ審判を逃れることはできない。囚人は必ず判決を受ける。私たち自身がその時と場所を選ぶことはできない。準備をして臨むこともできない。私たちは身一つとなり、裸のままで、壇上に立つことになる。

よい声で鳴くか、聞き苦しい声で鳴くか、どちらでも構わない。どちらにしても、何らかの鳴き声をあげることになる。ここでは善も悪も関係がない。鳴き声は鳴き声であって、それ以上でも以下でもない。私たちは私たちである。それ以上でも以下でもないし、それ以外であることはできない。

どうしてこんなに無様な姿をさらさねばならないのか。どうして美しい歌を歌うことができないのか。人はたしかに懊悩することができる。しかしそうした反省には大きな意味はない。肝腎なことはただひとつ、私たちは歌うことしかできない。それがどんな声であったとしても、嫌々ながらであったとしても、嬉々としてであったとしても、それがどのようであったとしても、声を上げることしかできないのだし、いまさらないものであるかのように振る舞うことは、錯乱であり狂気であり、何も存在しないと語る倒錯に似ている。

私たちは見られているのである。私たちはそういう場所に連れて来られた。見られる我々は、一つの表現になってしまう。私たちは言葉となり顔となり、そして味わわれてしまう。着ていた服は捨てられ、握りしめていた武器は地に置かれ、肉体と精神は炎に焼かれて灰となる。わたしはここにわたしとして立つことはできない。わたしは誰かであることができない。わたしはここでわたしではない。わたしはここに連れられる途中で過ぎ去られて来た。

生活の上で服を着ることは認められるべきだし、服を着ているからこそ脱ぐこともできるのだし、服を捨てた後に何かが残るのかは知らないが、ここにおいて、見られることは、裁かれることであり、裁かれることは恢復することであり、恢復したものは頽落するのであるが、この円環運動のどこかに、自由というか、本来性の端緒が、備わっているのだろう。

もっとも私たちはこのような仕方で理解するというだけのことであって、いまここですでに裁かれているのであり、罰せられているのであり、許されているのであり、思い上がっているのであり、それらはいわば同時なのであり、すべてが生起しつつ終わっているという、そんな風に言うこともできるだろうと思う。

私たちがしたいのは、こうした構造を、利用することではないが、生活者である我々は、図らずも利用し、生活上の利便を図るための道具として、再定義しようとするだろう。それは仕方のないことではあるが、本来の場所を忘れないでいられるなら、その方がましなのだし、しかし忘れることが運動の一部なのであれば、その流れに身を委ねる他はない。人があるべき場所で深く潜れば潜るほど、それだけ生活の堕落の幅も大きくなる。有体に言えば、深く認識すればするだけ、私たちはより愚かになる。

人間が人間であるために何ができるのか。私たちの側の事情は忖度されないので、私たちはそれぞれに口を開くなかで、その時々のしゃがれ声に、かなしくも美しい、自由らしい響きが混じるなら、せめて耳を傾けて、それが本当に自由の暗示なのか、それともそうではないなにか似たものなのか、聞き分ける努力くらいは、あるいはできるのではないだろうか。

2026.07.11

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