手紙 24

わたしたちの方法は、これは一種の態度であり、もっと言えば、生活態度であります。生の全体をまるごとひとつの方法として、事業を遂行する試みです。たとえば目的達成のために一日の内数時間を行動Aに割り当てる、という類とは異なり、意識非意識を問わず、全体が結果として何らかの行為であるという風です。

わたしは「わたしたちの」と申しました。端的に言えば、一個人の生に限定されるものではなくて、歴史的なつながりも含めてみるのもよいでしょう。わたしたちが目指すのは行為です。行為とはほとんどわたしたち自身であり、わたしたちの存在です。わたしたちはきちんと行為したいのですが、ある意味では一種の中庸の制御感覚を働かせたいと思います。実際に正しくても歴史的観点からして現在それを採用することはよろしくないという事態はあり得ますし、我々の言う中庸は、様々な真と偽の交錯する中で、それが真であるからとか、それが偽であるからとか、そのような基準で選択するのではなく、まったく別の、いってみれば「人間らしい」観点を持つことが望ましいと思っています。

こうした基準を有し、あるいは有そうとし、世の正邪判断を尊重しつつも、そのまま受け入れるのではなく、あくまでも人間の歩みにおける適否を第一とする態度が望ましい。こうした態度が持続するためには、人間としての責任という自覚が要るのかもしれませんし、そもそも人間の歴史というものに対するある種の理解が前提なのかもしれません。当否の基準はその都度問われ判断され施行されるものです。判断というより応答でしょうか。問いかけにこたえるという様式が、肝腎な点なのでしょう。

もっともこうした理解はすでにひとつの解釈であって捉え方に過ぎません。階梯の内のひとつの段に過ぎません。しかしそれがどの段であるか、すなわち初段であるか後段であるか、稚拙であるか老巧であるかを評価することに意を注ぐよりも、我々としては、次の段階にいかに上るかに心を向けたいのです。わたしたちが集中すべきは行為そのものであって、それについての思索ではないのですから。

こういう物言いはあまり好まないのですが、ギリシアから借りれば、わたしたちの目はオイディプースの目です。テーバイの王の裔孫(えいそん)たちは血の涙をこぼしながら稲を刈ります。その赤い涙を拭うのは、週に1回くらいです。こうした生が我々が中庸と呼ぶものであれば、それは安穏とは少し異なる調子で、しかも静謐の内に行われることになります。驕慢ではなく顔を上げることはあり得るのかという、疑念と恐れの下で、人は尊厳ある存在か否かという、問いを喉元に突きつけられながら、よろめいて倒れつつ、まなざしだけで訴えかけます。

「わたしたちはわたしたちを含む全体を見ることはできないのだ」とはっきり言明できたら、それが拠り所になるのかもしれませんが、そうした発言は出て来たとしても滑り去って留まりません。生活は楽ではないのです。肝要な点はここです。わたしたちは人間であり人間であることをやめることができない。わたしたちは飴玉を全身全霊で追いかけることしかできない。という意味は、あらゆる行為は畢竟そこに還元されてしまう。そんな我々が応答したいと思うのであれば、応答したいと思うこと自体がすでに悲劇ではないだろうか。もしも我々の側に責任を所有することの可能性がないのであれば、では我々の意思は、自由は、尊厳は、どこからやって来るのであろう。

このような状況において、窮鼠なるわたしたちが取り得るのは、どのような方法なのでしょうか。わたしたちは解答を求めるのではなく、どのようにすべきかを問いたいのです。わたしたちが欲しいのは解決ではありません。胃袋の満足でも幸福な一生でもありません。どうしても我々が欲しいのは、自由の可能性なのです。

2025.12.13

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