鳥はなぜ鳴くのか。こんな言葉がどうして人の心を引き寄せるのか。うららかな春日に鳴く鶯の声が、どうして人を黙らせ、冷たいしずくを落とすのか。耳を震わせる小鳥の歌が、どうして人の胸をかなしみで満たすのか。そこには共感もなければ畜生類へのあわれみもなく、人と鳥との垣根も重要ではなく、当たり前のように、わたしは鳥のさえずるのを聞き、わたしは歌い、わたしたちは歌い、わたしたちは聞く。歌が響く。わたしが響く。鳥が響く。単にそれだけのことで、すでに解釈されたものとして、空気が振動するのを、わたしは見て取り、かなしみというのは、何らかの解釈の帰結としての感情ではなくて、たとえそれが何であろうと、とにかく何らかの解釈になってしまう、何らかの色として現れてしまうということへの思いなしなので、わたしが鳴いたということ自体、鳴かざるを得なかったということ自体、今も鳴いているということ自体が、わたしに自分が生きていることを思わせ、あるということを思わせ、ここに一種の心の震えが生じ、その振動の苦みと甘みが胸に広がり、その結果わたしの、わたしたちの顔は、沈鬱ではあるが弱り切ってはいないという、独特の平衡点に落ち着くので、表情だけを見れば、みな大体似たり寄ったりということになります。
絶望に陥ることがもしできるのであれば、幾分か生は鮮やかな色に縁取られて、きっと今よりたのしいものになるでしょう。しかし天秤はどちらかに寄ることなく、わたしたちはその間で、倒れることもできず、立たされているに過ぎません。わたしは手を上げます。鳥は羽ばたきます。草は芽吹きます。他にどうしようがありましょう。わたしは羽ばたくことができず、草は手を上げられず、鳥は芽吹くことができません。鳴き声はあがります。上がらないでいられましょうか。しかも、何らかの表現として、あらざるを得ません。正解を得ることが問題なのではなく、正解を得たり、不正解を得たり、善であったり悪であったり、何にせよ、何かである以外ではいられないことが、人の心を冷たくさせ、おしゃべりを続けられなくします。
わたしたちはいったい何の刑に処されているのでしょうか。幸せな人生を送ることができる人がもしいるのなら、まどろみのなかで生を過ごすことができるなら、その人をこそ賢い人と称するべきでしょうか。地上の生に必要なのはまさにそのような工夫であり、そのような工夫をこそ生活の知恵と称賛するべきなのではないでしょうか。おそらく地上的な不幸が、わたしたちの同伴者なのであり、幸福な生に囲まれる中で、冷たいしずくを熱い胸に受け、不幸せであり続けることが、前提条件なのであり、前提であるに過ぎません。
かたちだけでも、幸福と不幸が要るのであり、不幸であるためには幸福が必要なのであり、幸福の度合いによって不幸が定まるのであり、つまり、幸福のかたちをもたらす思想という光源からもたらされる光によって照らし出される現在が、不幸なのであって、その不幸の影の濃さは、光の強さによるということです。幸福というのは人が不幸であるための偉大なる発明品なのかもしれません。不幸でありたいがために幸福を追い求める。少なくとも不幸が保証されているのは、あるいは確保されているのは、実際には人に可能性を与える根拠なのであり、したがってある程度の安心の根拠であると言わねばならないのではないでしょうか。こうした事情は錯綜していて、その織り目の複雑さが、鶯の声のかなしい響きと、それを聞く人の顔付きに、反映されているのでしょう。
2026.05.16

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