手紙 27

わたしの手は土をこねてなにものかを作り上げる。隣の人もなにかを作り上げる。造られた品においてわたしたちが共感することはない。似ても似つかぬものだから。ただそれを壊すとき、わたしたちは似た者同士となる。不思議なことに、わたしは壊すことができない。わたしの経験するのは、自分の破壊行為ではなく、ものが壊れるという出来事だ。ものは崩壊する。わたしの指は作るためのもので、壊すためのものではない。わたしたちはそれぞれがそれぞれの夢を見て一喜一憂している。その間に重なりはないのだと思う。

しかしもし、もし崩壊という事態があり得るのだとしたら、これは奇蹟のようなものであって、そこに人の間の連帯が生じる可能性がある。否定は大きな肯定の前でのみ生じる。大きなというのは、わたしが把握できないほどという意味で、つまり肯定はわたしから来るのではない。わたしから来る肯定は、否定につながらない。これは非常に単純なこと、単純な信仰だ。人はたぶん否定を考えることができない。理解することができない。視界に収めることができない。しかし現実がそれなので、であればきっとそうだろうと信じることが生活の基本態度となる。

あるものは壊される。あるのであれば壊れる。そしてわたしは総じてあることしかできない。だから崩壊というのは、誰にでも起こることで、共通経験で、ここにおいてのみ、人と人とは共感することができる。倒壊が生じるものを人と見なすと私は言っているのだろうか。何にせよ、わたしは、まだわたしたちとは言わないでおこう。否定する側ではなく、される側であって、その場面ではあらゆる口はつぐむ他ない。そこに価値も意味も計画も見出せないのであるから、それが何であるかをわたしたちの口は言えないのであるから。だからわたしたちは黙る他なく、もしその場に沈黙が生じるのであれば、それがわたしたちの共同の、ひとつの証とも見なせるのだろう。

いかにも言葉はその場所にふさわしくない。地上で聞かれるもっとも崇高な音楽はとても静かだ。そこでこそわたしは誰かの手に触れることができ、わたしはわたしたちとなり、あらゆる行為を失って途方に暮れた羊の群れは、物語り風に言えば、きっと何か新しいものに生まれ変わるに違いない。

実際現実に起こっているのは大したことではなく、肯定と否定の交差の連続に過ぎない。しかも大層な肯定でも否定でもない。何とも卑小なことだ。しかし壊れるという点では高低も大小もない。壊れた後には何かは残るのだろうが、残ったものが眼目なのではなく、壊れるということ自体が経験の中心なのである。

わたしは守る。しかし破壊される。わたしは抵抗する。しかし蹂躙される。わたしは望む。しかし望みは叶わない。わたしは教育されているのだろうか。これは何という高度な教育であろうか。昨今の学校教育とはまったく異なり、役に立たないのであるが、ああ、わたしの何という楽天さ! 阿呆のように信じ込んでいるようだ。疑うことをしていない。まるで赤子だ。間違っていたら正してくれる教育係かなにかがいらっしゃると素直に信じているのだろう。この信仰がもしもあるものだとしたら、それはやがては否定されるのだろう。しかしそのときが来るまでは、わたしはゆりかごの中ですやすやと眠るに違いない。

2026.01.10

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