たとえば私が今戦火のなかにいるとしたら、砲弾の飛び交う街にいるとしたら、机に向かって書くことはせず、銃剣を摑んで外に出るかもしれません。それで撃たれて倒れるか、撃って倒すか、瓦礫につまずいて転ぶかするでしょう。そうしないのは、たんに私が今戦争の渦中に身を置いていないからに過ぎません。しかしおそらく、こうも思うことができないでしょうか。彼らは私の代わりに爆撃を受け、私は彼らの代わりにペンを執ると。何となく感じるだけなのですが、どうもそういう感覚の揺蕩い(たゆたい)を覚えます。
私と彼ら彼女らの間にはなんのつながりもないですし、私が勝手に想像しているだけですから、むしろかの人たちが私の発言を耳にしたら、わたしの平和な無知に呆れ、怒りを感じるかもしれません。けれどどうしても私には他人事には思えないのでして、それはわたしが彼らの境遇に同情を寄せるからではまったくなくて、彼らも私も人間の一部であり、それぞれが自分に割り当てられた分を引き受けているだけと感じられるからです。私は他の人々を助けたり慰めたりはしません。それは私には僭越に過ぎることです。礼を逸していることです。憐れみの情も起こりません。それぞれがそれぞれの役を果たしているだけですから。ただ、わたしも人々も同じ何かの部分に過ぎないので、そこに可感的な交通はないにしても、いわば空想された連帯があるので、きっとわたしには他人事には感じられないのですし、それがまるきり私一個の幻想だとしても、今は私はその思いこみを放っておこうと思います。それは嘘かも知れませんが、すごく悪い嘘ではないように思いますから。
さて、では彼らが彼らの分を取るように、私は私の戦場に立ちましょう。そこには鉄の弾丸はありませんが、命に関わる戦闘が行われることに違いはありません。血と肉の戦場に生と死があるように、ここにも行為と運と危険があります。隊長の号令があるかないかは別として、私もここで進むのであり、進むしかありません。生と死の境界が見えにくいので、自分が死んでいるのに生きていると思って歩き続ける体もあるのかもしれません。しかしそれはわたしには判断のできないことです。わたしは自分の分に注意を払いましょう。わたしが生きているか死んでいるか、生きられるのか死ぬことができるのか、それは今のところ分かりません。
わたしは言葉を紡ぎたいのです。こういう言い方では明確にはならないのかもしれませんが、真正な言葉を申し述べたいのです。それだけがわたしの関心と言っても言い過ぎではありません。それをすることができれば、夕べに死すとも可と申しましょう。真正なことばを発することができるかどうか、わたしに確証はありません。わたしに自由はあるのかという関心でもあります。わたしの意思はあるのか、わたしはあるのか、わたしはなにか、わたしは応答できるようなものか、そういう関心です。
日常の中で一人の生活者がこのような関心を抱くことは稀ではありません。しかしその時その生活者は、一瞬手を止め顔を上げて窓の外に揺れる松の葉を見ますが、すぐにまた生活のなかへと戻ります。他にどうすることもできないからです。正確に言えば、その関心を追いかける手段が、自分のどこを探しても見つからないからです。手はほうきを取り、玄関の掃除を始めます。この一連の動作は、おそらくどんな人間にも見られることでしょう。むしろ生活の全体の色取りがそうなのかもしれません。進みようがなく、そもそも道がないので、人はとりあえず掃除を始めるのです。
きれいになった部屋でお茶を飲むでしょう。何か置き忘れたものがあることを感じながら、ゆっくりと味わう茶の味がもし薄いのであれば、その時人は一種の物足りなさを感じます。その物足りなさは失われた空白に通じ、生に特徴的な空虚の感を添えるのです。もしそのお茶が上質であったなら、それは幸運と言うべきで、一時的にせよ、忘れて過ぎたことを忘れることができるかもしれません。どちらにしてもまあ、こうした人間の生活風景は、かなしいものです。鳥が毎朝木にとまって鳴くのに似ています。鳴きたいから鳴くのか、鳴きたくないけれど鳴くのか、何にせよ鳴くのか。ここにおいては人も鳥もまったく同じで、あわれです。鳥が鳴くのは、私が鳴くのですから、そこに同情の入る余地はなく、憐憫でも共感でもなく、それはそういうこととしか言えません。
2025.11.15

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