手紙 17

思われるのは、羊の群れに罪はあるのかということで、昨日までいた羊飼いの姿も見えず、朝日が草の露を照らすとき、あわれな羊たちは所在なさげに、弱弱しい鳴き声をめいめいにあげる。そんな情景を前にして、いったいどんな暴君が、白いかたまりの責任能力をあえて問う気になるでしょう。青い草を求めるだけのその生き物はあまりに無力ではないでしょうか。こと問わぬ人形に説教することが何かしらの錯誤を含むのだとしたら、人形と羊にどれほどの差があるのかを焦点にしなければならないのでしょうか。もっともそこに羊飼いの少年がいるのであれば、話は別かもしれません。少年は導き手として、状況を理解し判断します。彼には問うことができるのかもしれません。もっともこれも程度の問題であって、彼がどの程度に理解しどの程度に判断するかを見れば、これは羊と人形との延長線上のどこかに位置づけられるので、であれば彼に問うのも無理な話としなければならないのかもしれません。

さて、わたしは別に白いもこもこの話がしたいのではありません。何のことはなくて、わたしは自分のことを思います。わたしにはよく見分けがついていません。自分は罪を犯せるほどに大きな存在かということ、そう見なすことは一種の傲慢ではないかという疑念。結局は以下のような生活の感想になりましょう。

「わたしはどこにいるのか。わたしはいるのか。わたしが思うようなわたしは本当にいるのか。わたしはわたしが思うようなわたしであるのか、あり得るのか。わたしは自分に尊厳を見出せるか。わたしはわたしなのか。わたしは自由であるのか」

このような関心があるとして、ではそれは深刻な疑念でありえるのか、といったことも思わねばならないでしょう。人間について、敬虔不敬虔というのは本当に現実的な徳でありえるかということです。どのような思想を採用するかの問題なのでしょうか。凡夫が自覚するのは難しいから弥陀の誓願に頼りましょう、堕落した存在者の意思は救いに関与できません等々、自由という事柄の周囲には様々な言論が渦巻いていますし、私自身もその中のどこかで溺れているといったところでしょう。からまった糸を解きほぐす作業はもちろんしたいですし、体は放っておけばそちらへと引っ張られるのが常ですが、わたしは第一に事柄自体へと注意を向け続けるべきでしょう。

話は逸れますが、事柄の周囲を巡り続けるというのは、惑星の楕円軌道に似て、あるときは近づきあるときは離れ、それでも遂には付かず離れず、つまり衝突もしなければ関係が断ち切られもしない、不即不離の状態が保たれるということで、つまりそうした円環運動のなかで、「うまくやらねばならない」のです。これは方法の問題です。急流に足を取られ溺れる者は、おそらく考察を少ししかしないあるいはできないのであって、ほとんどはもがきであり、手足のばたつかせであり、いわば弓を持って的に向かいながら、そして矢を的に向かって放ちながら、しかし同時に心に別の的を定め、実際に目の前にある的に実際に矢を放ちながら重ねて別の的を射抜くようなことをせざるを得ないのが、置かれた状況だということです。本来の的が別にあるというわけではありません。的はそこにあるもの以外にない。しかしその的を通して私が射抜くのは、その的のみというわけではない。そのような状況をうまくこなすことが求められるということです。

たぶんですが、ここにはいわば感覚的要素もあるように思います。それこそひとつの運動競技において、上手と下手の区別があるように、方法の根本部分にあるのは次のような日記が述べる状況です。

「切迫しているというか、間髪を容れる余地がない。わたしはいまここで生に対処しなければならない。わたしは今死ぬことができ、今生きることができる。わたしは今何かをしなければならないし、働きに出なければならない。わたしはすでに途上にある。すでに動いている。わたしは何らかの中にいる。わたしの一挙手一投足は意味を持ち表情を持ってしまう。どれほどのことが可能かわたしには見通せない。このような状況でわたしは今何をしたらよいか、何が優先されなければならないか。わたしは競技場でボールを追い駆けているのだ。なぜかは知らない。ルールや戦術は教えてくれたが、走りながらわたしは何をすべきか。チームメイトはどんな顔をしているか、泣いているか、喜んでいるか。朝が来る。来ないこともあるかもしれないが、今ここに朝が来たなら、本を取りに行く暇はなく、私は向き合うことになる。いや何かと対するわけではない。そのような明確なものはない。わたしはただ目を開けている。何が何だかわからない。朝が来ると言ったが、朝という何かがはっきりとあるわけでもない。どういうわけか、こうなっている。わたしという何かがはっきりとあるわけでもない。便宜的にそうして置いて済ませているというだけのことだ。ここには余裕がない。落ち着いて眺めるという風情がない。平静を取り繕うことはある程度できる。それは工夫次第。けれど頑張って建てた安全な家は、天災によっていともかんたんに崩れ、そうなればそこに残るのは当惑と混乱と不安で、そのままではいられないから、人々は手を取り合って煉瓦を積み、再び壁を作る」

家がなくなったら、造る他ありません。普段ある程度平気な顔でいられるのは、屋根の下にいるからなのだということです。

2025.10.25

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