手紙 15

敬虔と不敬虔を語るということの不遜さについて思うのは、重苦しさを伴います。人間の口はそれについて何かを言うことができるほど大きいものでしょうか。別の言い方をすれば、人に罪はあり得るか、罰せられ得るほどに人は自由であり得るか、ということで、何か生活の中に生じる絶望的な感覚と隣り合わせで、それは白昼に人間を求めて手燭をかかげ歩くのに似て、真剣と諧謔が入り混じる、一言で形容すれば、いつの世にも見られるかなしい見世物で、そういう意味では前進も後退もしていない一点なのでしょう。

わたしが自分をからくり人形ではない何かであると思えるかということで、人形と人間を区別する点がどこにあるか、どこかにあるのかということです。もしわたしという存在が、何か目的を持つもので、その目的を達成するために、理性を駆使し、いくつかの手段から選択し実行し実現するような、機械装置なのだとしたら。たとえば仕事に出なければいけない朝、体は眠りを欲しているとき、わたしは夢を見ますが、その夢や幻は、体を寝台につなぎとめるためであれば、究極的には何でもよいのであって、昼間というものも、程度の差こそあれ、そんな状態なのだとしたら、動いているわたしを、わたしはわたしと実感できるでしょうか。

わたしが定められた通りに動く人形であって、しかもその運命の糸を知らないままなのだとしたら、そのような存在者のどこに尊厳を見出せるでしょうか。わたし自体がすでに規定されたものであって、もっと言えば手段に過ぎないのであって、定められた星の下にある程度の裁量をもって動くけれども、それは畢竟(ひっきょう)わたしが知らないからであって、知らないからこそ自由であると思えるだけの存在であれば、自由は大きな幻想の一つに過ぎず、わたし自体がものがなしい滑稽な劇の一部というわけで、オイディプスのように非凡でもない我々は、見てはいるけれども見えていない盲者として生を過ごすのが日常で、その中で、しかしそれが何かはわからないが気になることは気になるので、定期的にお祭りを開催して、いわば共同のごまかしをすることで地上の平穏を保っているようなありさまです。

言ってしまえば、人間ごっこをしてお互いにあえて指摘をせずに控えるのが暗黙の了解なのですが、このかりそめの平和を破るために爆弾を製造するのも野暮というものですし、そのような芸は下品とするべきですし、創造するために破壊するのは、あくまでも暴力によるのではなく、創造の運動による副次的なものでなければなりません。偽物の光に覆いをかけるのではなく、より大きな光で照らすのみです。物が壊れるときには大きな音がしますが、物が消え去るときには静かなままですし、処分に困る残骸も残らないでしょう。

とはいうものの、実際には、小さな破壊工作は避けては通れないものかもしれません。わたしは知らないわけではなく、ある仕方ですでに知ってしまっているのですから、真っ白なページから始めるわけではなく、すでに書き込まれた紙面において進まねばならないのです。この条件が、わたしたちの恵みであり呪いなのだと思います。

2025.10.11

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