手紙 14

雨がまだ降っています。昨夜、薄い布団のままなので寒いかと思い、厚手の服を着こんで床につきました。しかし思ったより気温は下がらず、寝苦しくて何度か目を覚ましました。今朝、台所に蟋蟀(こおろぎ)がいました。じっと動きませんので、生きているか死んでいるかわかりません。触れば動き出しそうな感じがしました。水の音、虫の音、自分の腹の音、どれも勝手に響いています。

人が雨の日に思いに沈むのは、雨がどうしようもないものだからでしょう。雨の音を聞いているとは言えません。目を閉じたとしても、音は耳から入り込み、屋根で防いだ水がわたしの中へ入って来ます。無力、諦念。雨の日は死の練習というよりは、ほとんど死の実践です。世人にあっては少しばかり優しくなるのも雨の日です。雨に当たって人は少し柔らかくなるのでしょう。こんな日には、隣人の話を聞いて頷くことも、あるのかもしれません。より大きなものを前にして心が砕けた人々は、一様に首を垂れ、死を選ぶのではなく、その訪れを受けとめます。このようなわけで、雨の日は静かなのです。

さて、わたしはまず解決しないための努力について、あるいは工夫について言及しなければなりません。解決が目指されていること自体はもはやどうこうしようもないのですから、その中で、つまり全身全霊が解決を模索するなかで、どうやってその解決を引き延ばすことができるか、あるいはそもそも解決に至らせないことができるか、ということです。そこで「問題」という構造について見てみたいのですが、現状が望ましくないというのが問題で、望ましくない現実を望ましい状態に変化させることが解決とすれば、そして望ましい状態がすでに知られているのであれば、これはAからBへの機械的な変化に過ぎないので、その中でどうこうする余地はないと思われます。

実際上の課題はあるでしょう。Bという望ましい状態に変化することは現実的に可能か否かという点が課題となるでしょうし、どのようにしてBを実現するかに力が注がれることになりましょう。しかしおそらく、実際に起こっているのは以上のようではなく、何か運動が行われるとき、実現されるべき結果は常に知られていないという前提があり、したがって、何を目指すべきかが判然とせず、ここに問題を解決するいくつかの選択肢が現れるのが通常のようです。

一番わかりやすい例は性欲でしょうか。性器的な刺激が生じて私たちは何かを目指すわけですが、その対象は美人でも車でも盆栽でもあり得るので、つまりどれが正解なのか定まっておらず、どれを選んだとしても、ある程度は充足するようなものです。自分が何を竟(つい)に欲しているかはわからない、知られていないわけです。そしておそらく、知られていないものがあるということになるのでしょう。性欲という場面において、もし美人が見出されるのであれば、そのとき美人はある程度あてはまるものとして選ばれたに過ぎません。ある程度は満たすもの、ある程度はかなうもの。完全には満たされないのであれば、得たところで探求は終わらないのが道理で、終わるのは、もし終わるときが来るのであればですが、それは知られたときでしょう。換言すれば、あるものを知ったときです。

これは言葉にするのも恐れ多いことですが、というか実際わたしは今ほとんど震えながら記していますし、ちょっとこれ以上進むのはやめた方がよい気がするので控えますが、自分が欲しいものが何なのかもし知っているという方がいたら、その方はたぶんそれこそ昔の人の語ったような、自分で自分の言っていることが何なのかわかっていないのだと思いますし、わかった上で言っているのだとしたら、人間の領分を踏み超えるその蛮勇は何らかの雷をもって報いられることになるでしょう。

ともあれこのような緊張があるなかで知は扱われるわけですが、いわゆる現に成立しているような世界というものも、一種の美人であり茶器であって、ある程度望ましいものとして欲されているものとして理解するのが正当なのかもしれません。知をこのように理解する場合、言語というかカテゴリー的な認識方法の淵源が定位されます。この見方によれば、世界はすでに何らかの解決であるわけです。「何らかの」というのは、ある程度という意味です。現状私はそれが何の解決かを知らず、どの程度の乖離があるのか測れず、すでに解決されている以上、つまり持続的に解決されつつある以上、世界を対象として認識することができず、したがって自分がすでに何らかのかたちであるのにも関わらず、自分が何であるのかわからない状態に置かれています。

2025.10.04

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