手紙 52

もっともこのような場所を造り維持する試みという営為自体が、そこに集う人々に安心を与えるような、居心地の良い巣穴を提供するような行いなのだとしたら、これは本と末の転倒であって、この場所はつまるところ、安心と安定の反対をもたらすのでなければならず、まずはじめに疑念を生じさせるのでなければならず、居心地の悪い中に住まわせるような家なのであって、ある種の非快適性においてしかも家出をして冒険に出発することを留まらせるような、あるいは出発したとしても帰って来られるような、そのような故郷であるべきなのであり、身も心も休まらない中でしかも一生をそこで暮らせるような、そんな中道を見出せる所でなければならない。

人間が人間であるための、最後の拠り所が、発見されなければならないし、追い詰められた者はそこに集うのでなければならない。水が高い所から低い所に流れ落ちるようなためらいのなさで、人々は参集する。彼らは手を握り合うこともなく、言葉を交わすこともなく、すでに友人であり、家族である。このような結び付きはとても深く強固であり、離れていても繋がりは途切れない。必要があって繋がれた絆ではないのだから、用が済めば終わる関係ではない。

私たちはお互いを必要としない。お互いに慰めることはしない。理解し合うのに議論を交わす必要もない。わたしはそれであり、あなたもそれなのであれば、わたしたちはそれとして、挨拶をすることすら余計であって、配慮も思いやりも生じないのだし、出会ったときに一度の抱擁だけで、それで済むのである。

このような集団は実現されるのは難しいかもしれない。あるいは最も容易に実現されるものかもしれない。組織化の端緒は本質的にはこの場所以外のどこかにあるのだろう。ここには階級もないし区別もないし意思疎通すらない。しかしそのままで他のどんな共同体よりも強く結び着いている。共通の目標もなく理念もない。規則や決まり事もない。ひとりひとりが個であると共に全体でもある。

あなたがたは数は少ないかもしれない。しかしひとりひとりが、「わたしは人間です」と応答できるような者である。人の群れのうち、その肉のもっともかぐわしく香る個体であり、あらゆる意味でもっとも勇敢な者である。自分の持ち場を離れるくらいなら、あえてそのまま死ぬ方を選ぶ者たちであって、それを当然とする人たちであって、しかもそれが彼らには自然なことで、誇りにすらならないので、社会生活を送る身ではつらいことが多いけれども、各自の置かれた状況において、人間としてできる限りの最善をつくすように、蛇のようにうまく立ち回り、自分と意見を異にする人々の中で、人間全部として実現可能な程度を見極め遂行する、そんな行為者であるから、既存の社会における影響力や権力の多寡は直接の関係がなく、ましてや職業や役割にも関係がなく、性別、民族、宗教、趣味、思想の別は問うところではなく、ただ物語を生きる中で物語を疑い続ける者でなければならない。安住の場所を渇望しつつ遂に得られない者でなければならない。

しかしもしこのような場所が成立してしまったとしたら、そこに集い語る者の顔がもっとも人間らしくないように見えるということになるかもしれない。だからおそらくコミュニティは成立しない方がよいのかもしれない。もし現実に成立してしまうなら、それはたぶん何かしら似たものなのだろう。それがよいのかどうか、避けるべき事態なのかどうか、はっきりとはわからない。単独者の結び付きというのは、字面だけを見れば形容矛盾とも思われようが、その言語表現を矛盾なしに解釈することもできるだろう。

人間らしい顔とは案外もっとも人間らしくない顔かもしれない。「居場所は成立しない」という意味は、成立してしまう、あるいは成立しつつある場所において、その形成途中に身を置いたままでいるということ。わたしたちの居場所はあるのでもないのでもない。

2026.07.04

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