手紙 51

わたしたちは、肝腎の問題には答えられないかもしれませんし、取り組むことすらできないかもしれませんが、それでも場所を確保することならできるのではないでしょうか。それもできないのであれば、いよいよわたしたちの居場所をどこに見出したらよいかわかりませんし、疲れた体を休める腰掛けすらないのなら、倒れて起き上がる元気が恢復するかどうか、希望が持てません。

実際、私たちは本当に疲れているのかどうか、定かではありません。場所と言いましたが、椅子が欲しいのであれば、きっと造られるでしょうし、材料がなければ手近な石を積んで椅子とすることもできましょう。しかしそのようにして確保された場所が、本来確保されるべきであった場所かどうか、注意すべきはそこでしょう。

つまり、私たちが椅子を必要とする場合、椅子は造られてしまうのでして、そこにある厳密さはわたしは認めなければならないと思います。私たちはある意味課題を追うことしかできないのであれば、そこを超えることができないのであれば、課題を大事に抱えて、課題自体をよくよく吟味しなければならないでしょう。課題を抱きつつその課題を超えることができるのか否か、これを問い続けられるような場所が、ここでは求められているのだと思います。わたしがわたしでありつつもわたしを超えられるような、そんな可能性を求めることができる場所、私たちはそこに身を置くことができるのか、そしてどのように置くことができるのか、それが問題なのです。以下昨日の覚え書きです。

「ソーマ(肉体)はセーマ(墓)であるというのは、一種の物語であって、そのような物語を採用するのは、採用する側に何らかの必要があるからであり、そのような解釈をして嘆くのは、その実救済を確保するためであって、長い目で見ればそれは現実の中立的な理解ではなくて、ある種の曲解であって、強いてあるいは誣いてそのような見方をするということであって、したがってその吐息は快感の予感なのであって、いわば救われるがための苦しみなのであるから、そのような解釈を採用するというのは、すでにそれ自体が自己都合であって、一種の罪の犯しであって、どうしてそのような理不尽な暴力的な理解が許されると思えるのか、どうして平気な顔をしていられるのか、まったくもって面の皮の厚さは測り知られぬというべきであって、しかしこれが認めざるを得ないものなのだとしたら、見なければならない夢なのだとしたら、これは人間の現実というべきであり、投げ捨てることの能わぬ重荷というべきであり、ならばこれを引き受けることが、人間であることを引き受けるということであり、人間が人間であることを認めるという、それだけのことなのであるが、しかしここにはまたゆらぎもあるのであり、希望の発生しないというか発生し得ない世界に身を置くということも、人間には選択可能なのかもしれず、その可能性がこの生き物に人間らしさを具備させるのであって、人間の共同はこの人間らしさに基礎を置くべきであって、これ以外の感情や理論に基づく連帯は、言ってみれば偽物であって、しかも実に本物らしい偽物であって、そちらの支持者の方が多いのが常であるから、人間のそうした在り様に文句を言わず、それを認めた上で存立を試みなければならないので、言葉にしてみれば、人間は人間でありつつ人間の外へ出ようと試みるという、つまり人間であるが人間でない可能性を目指すということで、この袋小路においてどのように振舞うか、これが問われているのである。

このように言って置こう。わたしたちが相手にするのは現実である、あるものである。わたしたちは戦うのではない。戦いが成立するかどうかわからない場所で、定かではない敵あるいは味方あるいはどちらでもないものと向かいあったり合わなかったりして、右往左往し、惑乱する。この混乱は救いを予定に含んだ混乱ではない。わたしたちは救われるべき身であって、救われなければならない身である。けれども、わたしたちはまさにそこに挑まなければならない。これは難しいことに思われるから、総じて、人間であることは難しい。いや言い替えよう、人間らしくあることは難しい。」

つまるところ、人間らしさというものは、生活のうまさとか繁栄とかにあるのではなくて、あるいはその反対にあるのでもなくて、状況を引き受けつつその中でできる限り目を開いておくという、不可能な努力のうちに、もしかしたら見出されるのかもしれないようなもののようです。

わたしたちには祈りが不可欠なのかもしれませんが、その祈りはわたしたちの存在を強化するものではなくて、むしろその反対の方向です。祈るのはたしかに何らかのかたちであるようなわたしかもしれませんが、その祈りは「わたしはない」というあかしであらねばなりません。場所を確保したいのであれば、まずは基礎から始めるべきでしょう。肉付けされた豊かさといったものは当分後回しでよいのです。私たちは進み過ぎました。今は足元を見るときです。

2026.06.28

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