手紙 50

人間らしいことばを書きたいと思っているのですが、つまり生存の合間にほっとつくため息のような、それだけの意味のあるいは表現のことばを記したいと思うのですが、一番身近でかんたんそうに見えることばは現れ難く、理屈をこね回したり、熟考を経て難しい文章になったり、極度の緊張と精神の集中をしないとわからない論述になったりするので、ため息をつくというだけの動作ができればそれでよいのですが、それだけのことがとても難しく、狭い道を懸命に切り開いて、その先にやっと行き着くような、一番自然にできそうに思える表現をするために、大変な苦労をするような、理解し難い状況に置かれているかのようです。人間らしいため息が、ひと息つければそれでよいのですに、ため息ひとつ、うまくできません。

人間らしいというのはもちろん、答えを知っているという意味ではありません。それはなにか神的なものでこそあれ、人間らしくはないでしょう。身の程を知っているということではあるかもしれません。しかしものをわきまえている賢者というより、思い上がりもあるいはその反対のへりくだりもあるでしょう。そのあたりの妙をきちんと識別しているのなら、ため息をつく必要もないでしょう。

とはいえわたしは生活の中で実際にため息をつくのでして、それは思わず漏れ出てしまうものであって、それが人間的であるか非人間的であるかは、後から問うところなので、その思考による分別自体が、なにか人間らしいものであるかどうかはよくわからず、少なくともため息をついたということ自体は、あるがままに受け取りたいとは思うのですが、ただそのついたため息がもし非人間的な運動の一部だとしたら、そのため息を人間らしいとはわたしは呼びたくなく、であれば結局は人間らしいため息をつくことは難しいということになり、ため息ひとつつくだけのことが至難なので、話は振り出しに戻るのですが、人間らしいというのが、自由人らしいということだとしたら、おそらく人間らしいため息をつくのは随分後のことになりそうです。

もっとも人が自由であるとしたら、そのときその人は思い通りにならずに疲れることはあるにしても、嘆息する必要はないのではないでしょうか。人の嘆息というのは漏れ出てしまうものであり、それは自分が自由であるかどうかわからないから、自由の可能性が問題になるから出るものなのです。

その吐息は単純なものではなくて、その中には様々な色が含まれています。というのは、わからないということがわかっているなら、ため息が出る理由もないので、吐息という身体的な動作には、複雑な事情が絡んでいるので、一個の言葉として表現され得ないにもかかわらず、それでもここに生存して呼吸をしているという状況が、仕方なく生み出すもの、出さざるを得ないものが、人のため息と呼ばれるのでしょう。

それは嘆息ではなくてあるいは微笑かもしれません。わたしのため息とまたはほほ笑みと誰かのそれが同時に現れるなら、言語による意思疎通とは違うかたちの、個々人を結ぶ紐帯となり、わたしとあなたはそのときわたしたちとなり、結果として祭壇に共に向き合うことになるでしょう。ですから私が今注意すべきは、それがどのような嘆息かどのような微笑みかという点であり、わたしたちの連帯が決定的なものであるために、わたしたちは注意深くあらねばなりません。社交辞令的な微笑もしくは何らかの徒労感によるため息だって、何らかの共同の基礎となり得るには違いありませんから。

わたしは追究したいのです。あるいはきちんとため息をつきたいのです。わたしのつくため息がどのような類であるかは、わたしと共にある友人の顔を見ればわかりましょう。もしまだこの場所に人がないならば、それはわたしが正しく嘆息していないということであって、それもそれであまり人間らしい仕方とは言えないような気がいたします。

2026.06.21

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