片寄りがないことが目指されるのではありません。一方に偏しないことを目標にするのは、道を見失ったさまよい人の行為で、下品とまでは言いませんが、上品の行いではありません。
そもそもある場面においては、献身が問題になるのであり、身を粉にして没入することが求められるのであり、もし平衡を取ることが大事になるとしても、そうした調整はそのあとのことであり、肝腎なことはまずはじめにバランスが失われるということであり、はじめに徹底した片寄りに入るということであり、たとえその無理によって体勢が崩れ、その結果うまく行かなかったとしても、そのときわたしは平衡の乱れを責めるべきではなく、むしろ確かに日常の生存に必要な平衡感覚を崩し、事柄に徹底したかどうかをあらためるべきで、上手く行かなかったことに安心する方が、上手く行ったせいで注意がおろそかになるより、はるかに安全と思うべきです。あらまほしきは、上手く行っているのにきちんと目を開いているという在り様ですが、これこそある意味非人間的なことかもしれません。
ともあれまずは、心をことがらに向けることにおいて、徹頭徹尾の趣きがなければ始まりません。その集中のせいで自分の生活が害されるとしても、結果としてうまく進まなくなるとしても、始めに目を向けることがないのであれば、何がその後で行われるにせよ、その結果がどうであるにせよ、いくら磨いても光らない石になるだけであって、すべてはいたずらで空しいことになります。
目をそちらへ向け、しかもそこからそらさないこと。これだけが大事と、まずは言い切るのが、もっともらしい態度と言いましょう。適切にこの行為がなされるかどうかはまた別の関心です。それが破滅となるか繁栄につながるかはわかりません。まなざしは注がれねばなりません。しかも注ぎ続けられねばなりません。これが善い行いなのかそれとも愚人の所業なのか、判別は行為者の仕事ではありません。その結果天国に上るか地獄に落ちるか、どちらになったとしても、判決を受け入れるしかありません。
具体的に言えば、眼差した結果、生活が成り立たなくなり、悲惨な境遇に陥ったとしても、人々の親愛を失い、奴隷的労働に疲れ果てて苦しみしかない生を過ごさねばならないとしても、眼差すことをせず、あるいは中途半端にし、つまり適度な平衡感覚を働かせて、器用に見続けたとして、その結果生活がうまく行き、適度な幸福と苦しみに良き中庸の生を送るよりは、はるかにましと言わねばならないでしょう。
わたしは考えを働かせることの放擲を推奨するのではありません。現世的人間としては、生活を放棄することなどできないのですから。もし考えるのであれば、生活を関心の主題として、うまくやることを工夫するのではなく、生活という課題は脇にそっと置いて、事柄に即したままで、その中で生活が成り立つような工夫を求めるべきです。
ですが、このような方向は結局は半端なものに終わるので、実際には上手く行かないと思います。もし生活云々というのであれば、ますます生活から関心を離す方が、かえって望ましい結果に至る可能性が高くなるのではないでしょうか。わたしたちは引き返すことなどできないのですから、ならばどこへ通じるか見通しがないとしても、歩き続ける他ないように思います。
ことがらに徹した結果生きて行けなくなるという恐れがあるとき、適切な中庸の感覚を働かせて工夫する方向で解決を図るよりは、逆にその徹底の度合いを一層強めた先に活路を見出す方が、より現実的であるということです。活路が見出されるかはわかりませんが、見出されなかったとしても、それは徹底が足りなかったせいなのですから、自分に責めを帰すことができるわけで、心の健康だけは保ちやすくなります。
2026.05.02

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