週末の1時間だけ、その間だけが、失った心を取り戻せる時間なのだとしたら、そして心を取り戻そうが戻すまいが、どちらにしても見るべき差はなく、嵐が来れば振り回される身で、決心がついていようがいまいが、等しく荒波の中へ投げ出される身で、それでもそこに差が見られないとしても、週末は来るのであり、わたしは、わたしたちは、その時を過ごすのであり、それが全体として一個の茶番に過ぎないとしても、幼子(おさなご)が夢を見るように、夢を見るなと言うことはできるにしても、夢を見ないではいられないように、巡り来る日常を過ごすなかで、大きな断言をなるべくしないように心がけつつ、足元に注意して歩くことが、せめてわたしたちにできることなのであれば、結果は変わらないとしても、わたしたちの在り方には、何かしらの特異点が、舌における塩の一点が、香辛料の香りが、枯草の野原の萌え草が、たとえそれが気まぐれな風の一吹きによって霧散して消え去るものだとしても、あると信じることに、何らかの意味が、あるいは価値が、それはもちろん社会的な価値ではないですし、別に社会的な価値へとつながることを否定するわけではありませんが、つまり実を結ぶ前に芽は生じるものですが、何らかの違いがあるのかどうか、それを判定することができる立場に私自身はいないのだとしたら、茫漠たる思考の野に残されるのは、確固たる方法あるいは道筋ではなくて、一種の経験則というか、不断の連続の中で肉体に刻み込まれた型というか、それは言ってみれば、ある種の繊細さというか、美意識というか、大股な一歩に眉をひそめる自然感覚とでもなるのでしょうが、言論の内容というよりはまずその発声の仕方に対して美醜を感じる、その感性に過ぎないように思われます。思想というよりは、身体的感覚という方が近く、何をよしとして何をあしとするかなのですが、判断するのは言葉ではなく舌なので、ある食べ物が苦いか甘いか、感覚的に判別される事情に似ています。
わたしたちの舌を喜ばせるのは何か、あるいは、わたしたちの舌は何に喜んでしまうのか、という問いがより状況に即しているように思われます。味覚の鍛錬が課題とでも言えばよいでしょうか。その仕方は大雑把ではなく繊細にならざるを得ません。栄養素が問題なのではないからです。味読すること、注意を集中し、感じ、嗅ぎ分け、受け入れること。そしてその中で、うちひしがれないこと、希望のない中でもうつむかないこと、希望の溢れる中でも面を上げないこと。そうした態度に結果として至ることが、望ましいのではないでしょうか。
私の生が朝露であったとしても、永遠不変であったとしても、どちらにしても差はありません。命が永続したとしても、私が私でなかったとしたら、それは何というひどい罰でしょう。それは恐ろしいことです。もしそうであれば、草の上の露である方がましでしょう。終わりがあるというのは、最高の楽観に他なりません。楽観もある程度は生活するのに必要なのかもしれませんが、それを大量に摂取し続ければ、舌は麻痺するに至るでしょう。麻痺した舌で判別される味をその通りに受け止めるのには抵抗があるかもしれませんが、他ならぬおいしさを私はどうして疑うことができるでしょう。それがおいしいと感じるとき、そこに疑念はなく、それは私にはおいしいものであるのですから。
それが恵みであるか罰であるかは知りませんが、肝腎なのはそれがすでに判定であり、それがすでに判決であるという点です。であればわたしにとり得る繊細な態度というのは、あまり自分の味覚を信じ過ぎないこと、とでも言うべき、きわめて曖昧な、何か希望に満ちた、ある程度投げやりな信条で表現されるものになりそうですが、これは単なる懐疑ではなくて、注意深く見るという行為であり、味を受け入れた上で、しかもそこに異を唱える、しかも大きな叫びではなく小さな声で、然りと言いつつ然りに倚りかからないような、そのような仕方なのです。
2026.04.25

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