週末が終末であるというのは、一種の捉え方なのでしょうか。もしそうだとしたら、その状況下で人はこのように感動するというようなものでしょうか。それともそれは一種の現実なのでしょうか。土曜日の朝が来たらわたしがそうであったというような、所与なのでしょうか、単なる発見なのでしょうか。
来週という想像はできます。それはわたしが繰り返して来たものです。幾度も幾度も、その都度異なることが起きる週をわたしは繰り返して来ましたので、次もきっと来るだろうとわたしは信じています。それは一種の思想でもあり、それよりもっと現実なのでもあり、与えられたものと言うこともできましょう。
その現実があるとき変わるだけではないでしょうか。ある朝わたしは発見するのです。明日は来ないと、来週はもうないと。そう思いこむわけではなくて、そのような現実に置かれてあるのに気が付くのです。わたしは終末を過ごさねばならない。気持ちは落ち着いています。自分の終わりを前にして静かな心境でいられるのは、おそらく状況がどうにもならないと思っているからでしょう。自分が作り出した在り方ではありません。自分はそれを与えられただけで、自分の希望がたとえ別であったとしても、その望みが通る可能性はないと、わたしは思っています。
これはあきらめなのでしょうか。心があまりにも平静なので、そうとは言いにくいのですけれど。異なる現実を熱望してしかもその望みが叶えられず絶望の果てに辿りつく境地なのではまったくなくて、ただそうであるだけの場所なのです。抵抗しないでよいのですか。しかし他を望まないのにどうして反抗する理由がありましょう。これがよいのかわるいのか、わたしには判断ができませんし、あるいは好ましいか憎らしいかもわからないものに対して、わたしがそもそも何らかの感情を抱くことができるでしょうか。単にそうであるものに対しては、「そうですね」と言うことくらいしかできません。
受け入れることしかできないという言い様も、どこか異なる響きがあります。自分ではどうにもならない、受け止めるしかない、自由ではない、自分の思い通りにはならない。そういった反応ははじめはたぶん当然なのかもしれませんが、ある程度すぐに過ぎ去るもので、その後は無感動が支配するのだと思います。現実は受け入れるしかないというのは、ある意味で当たり前の言明です。同語反復に近うございます。
その現実の在り様がわたしの思い通りであるか、それともわたしの思いとは異なるか、は大きな問題にはなりません。現実とここで言うのはつまり、わたしがそれなのですから、どうこうする対象ではないと理解されています。問題があるとすれば言い方の問題であって、希望とか現実とか自分とか自由とか理解といった、捉え方に関しての適切さについては、関心されるべきかもしれません。
明日が来ないのか、今が最期なのか、2分後が終わりなのか。そういった言葉は、状況に際して形造られたもので、その現れ方は注視するのが当然かもしれません。白紙の状態において現実が経験されるという理解よりは、別の理解をする方がより意味深いといったことがあるのかもしれません。いずれにせよ、わたしたちがはじまるのは現実からでしかないのでして、それはきわめてつまらない事実なのです。もし言葉を発するとしたら、「はい」あるいは「そうです」としか言えないような、疑念を差し挟む余地の一切ないような、反抗の発想すら出て来ないような、そんなものに過ぎません。
要するに、わたしは終末とか終わりとかいう語を使っていますが、そうした語を永遠とか常にとか続くとかに置き換えてみても、大きな違和感がないどころか、そちらの方が腑に落ちるといった感まであります。明日世が終わろうと、いつまでも続こうと、私にはどちらでも同じことなのであって、どちらでも差がないと感じられるものが私であるとも言えましょう。そのような私、そのような現実が、このお話の眼目なのです。付け加えるなら、今日までの命であるということと、いつまでも変わらぬ命ということと、そのどちらでもないという命と、どのような生存が私であれ、それらの間には有意な差はないということで、そうした状況が現実だと私は見ているということです。
2026.03.28

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