手紙 35

おそろしいもの。しあわせ。あるいは、しあわせのまぼろし。予見されたしあわせ。それが圧倒的なので、大きすぎるので、こわい。濁流にのみこまれる藁人形。その勢いを前にして、立ちすくむばかり。自分の力と比べてあまりにも強いから、あらがいようがないように感じられて。蛇に睨まれた蛙。ちがうのは、恐怖というよりは、隠しきれないよろこび。身をひきさくばかりの喜び。暴力的なまでの喜悦のかたまり。もしそれが訪れたなら、この身はかんたんに爆発してしまう。この肉と皮の中には収まりきれない。のまれ、薙ぎ倒され、引き裂かれる。だからしあわせな未来がおそろしい。

omnia vincit amor?(愛はすべてを征服する?) そうだ、今はこう言おう、omnia vincit voluptas(よろこびはすべてを征服する)。わたしたちの眼前にあるのは完全な幸福だ。その距離の近さを感じる時、わたしたちはふるえおののく。他ならぬ我が身が beatus(幸福なもの)になる可能性があるということが察知されるだけで、vir(彼)は魂の底からふるえあがる。それが味方であるとは感じられず、あまりにも大きいそれの前では、人はただ打たれるばかりで、息をのんで目を見開くことしかできない。呑み込まれて溺れて死んでしまえば楽になるのだと思う。しかし進んで濁流に身を投げることはあまりにもおそろしく、そのような勇気を持ち得るのは、心の麻痺者か命知らずな野蛮人か、どちらかでしかない。

自分が他ならぬわたしが、まるごと作り変えられてしまう。自分の形は保てない。自分は自分ではなくなる。しかもその可能性がすぐそこにある。根本的な変容の可能性が、手の届くところにある。無造作に置いてある。このような瀬戸際に立たされてあると意識されていたら、平常な社交は望めないので、こうした恐怖と上手に付き合う方法を各自で工夫しているのが現状だ。だから社会生活のなかでは、表立って現れることはなく、ときどき顔をのぞかせるだけ。その一瞬だけ人は生活の中で手を止めるが、仕事に支障が出るほどではない。ただしばらく不気味さは残る。隠れていても、なくなったわけではないのを人は知っている。

ささやかな抵抗に過ぎないことも、やがては大きな波に飲み込まれることも、おそらく正面から乗り越えることができないことも、つまり、自分がそういう存在であることを、何となく理解している。あるいは、忘れているのかもしれない。自分がすでに呑み込まれていることを、その波の下にいることを、すでにある意味で死んでいることを、知らない振りをして、自分を相手に我が目を欺いているのかもしれない。もしそうだとしたら、わたしたちは大した役者、一人二役の名優である。

わたしたちはすでに幸福の中にいる。籠に捕らわれている蝶は外に出られない。その中で幸福を見上げる時、幸福にあこがれるそれは、すでに幸福なのである。幸福自体を外側から捉えることはできない。できるのであればおそろしいものではないし、おそろしかったとしても相対することができるなら、戦うことができる。しかし戦うことができる相手では原理的にないようなものがもしあるのだとしたら、そのとき人はその臨在を前に横に中にして、どのような取り繕いができるだろうか。どのような言い訳が立つだろうか。わたしはそれなのだから。

とはいえわたしが幸福の予感に震えたとき、わたしはたしかに幸福を前にしていたのであり、すなわちわたし自身はそれではないものとしてあったのである。わたしは幸福ではなかった。幸福でない何かだった。そして幸福の影を前にして、自分が幸福にならずにいられるのか、耐えられるのか、わからなかった。こういう言い方をしたらよいだろうか。幸福はそれに成らずにいられるようなものではない。幸福に逆らうことができる者はいない。わたしたちは幸福の奴隷である。

恐れとはつまるところ自分がそれであるという予感に他ならない。その宣告を覆すことができない。抵抗は難しい。幸福に成りたくない存在に成れるのであれば話は異なるけれども。そうした英雄を空想することができたとしても、そのときその主人公が相手にするのは幸福の仮面をまとった何か別の物であるに過ぎず、その物語は最初から最後まで上滑りした本当の意味で下らない作品となるだろう。それは現実を逆照射する暗喩にすらならない。

2026.03.08

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