手紙 30

俺は何がしたいのか。そのような問いが発生したとき、私は今まで感じたことのない響きを聞いた。私は今まで一度もそう尋ねたことはなかった。私は命じるばかりであったのだろうか。自分に対して、道具のような扱いをしていた。自分の声をこそ聴かねばならなかったのではないか。他人には優しく自分には厳しくというのは、何という甘えであり、幼稚であり、わがままであり、乱暴であろう。

色々な層が積み重なっているのだと思う。私の定位するのは主に生活という現実なのだが、それは幾層にも重ねられた部分からなっていて、認識から行動まで、それぞれが一応区別され得るので、その間にずれが生じることが可能である。端的に言えば、王様でありたいと欲するとして、しかし認識上における世界では王様ではないのであれば、二つの層の間に齟齬が生じる。であればいわば物自体と認識の間の差というよりは、認識同士の違いである。他人に対しての暴力に気を使う者が、自分に対しては無頓着に暴君のごとく振る舞う、ということは珍しくないし、むしろある程度当然の帰結ではある。

ここで王様になれればそれで済むお話であるが、どういう事情でか、思いの通りに成らない場合、ここに解決すべき事態が生じる。というより、事態が解決すべき事案となる。ここで問いが生じる。解決を目指して動く中において生じる、徒労感が土壌である。いたずらな感じ。私は本当に王様になりたいのか。わたしは本当は何に成りたいのか。これは傾聴である。耳の傾けである。私は自分の願望を脇へ置いて、今はまだ聞こえない声に耳を傾ける。的外れな行動は疲労に結果する。

この過程において、何か学びに似た要素は見出されるだろうか。変化がここにはあるのではないか。芸事などを例にとればわかりやすいが、型を習うという行動を見れば、初学者は教えられた型と自分の身体との間の差を埋めようと動くが、初学者の初学者たる由縁はまさに型の理解にあるので、本来の型の在り方を想像できないことにあるのであって、学習自体に注目するのであれば、身体というもの自体が眼目というよりは、未熟な状態というのは何か道具に過ぎないのであって、その改善が目指されるのではあるが、改善されるべきは身体ではなく把握なのである。

私たちは多かれ少なかれ大きな物語の中に共同して住んでいるのであれば、ただ中においてものがたりの把握を試みるためには、単純な認識の仕方とは異なる様式が要る。仮に私たちを駆り立てるものを美と名付ければ、肝腎なのは美しい何ものかではなく、美それ自体の方であり、型それ自体を把握することはできない中で、美しいものに惹かれて追いかける他ない哀れな生物として運動する中で、欲しいのは可能性、変化の可能性であり、もしそれが可能なのであれば、人間は神にも等しいと思えるのであり、もし不可能なのであれば、私たちは生活の仕方を工夫した方が健康的ということになる。

各層において、そこを照らす光があり、明暗の別がある。暗いというのは光が少ないという意味になる。農家の望むのは収穫であり、軍人の望むのは勝利である。私は人間でありたいと思うが、これは不当な思いであろうか。人間の物語の中で、人間として私は望みたい。歴史への誠実を果たしたい。今一度立ち返りたいのは、美は存在していないのであって、在るのはいつも美しいものに過ぎないということだ。私たちは示されたものを追うことしかできない。

2026.01.31

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