正気でいられる時間がどれくらいあるか知りませんが、せめて私たちのことばがどこかに届くように、届くようなことばであるように、願います。
正気とはなにか。あるのかないのか。どうしてそれがわたし一個の思い為(な)し以上でありえるか。一種の幻想ではないか。定かにこれと言えませんし、もしそれがわたしの生に寄与するもので、つまり何らかの意味でわたしの役に立つものであれば、少なくともその正当性に少しは疑いを持たねばならないでしょう。
本当に興ざめなことです。もしそれがわたしの安定性を増すための道具なのだとしたら、正気と鈍気を区別することが、わたしに価値を、あるいは価値の可能性をもたらし、その結果わたしが傲慢になるというか、本来区別しても仕方がないところに区別を持ち込んで、不和の種を蒔き散らし、自分の安定と繁栄を図る道に指針を与えてしまうのだとしたら。このような疑義のあるなかで、わたしが言葉を紡ぐとき、出来上がる織物の色合いを見て、気持ちの悪さを感じないでいられるのであれば、それはたんに運がよかっただけのことで、的に当たったと評価されるべきではありません。
たしかに、私たちは筋書きのない舞台に立たせられてその場しのぎの役を演じるわけではなくて、脚本はあるのですが、筋が錯綜していて、最高の結末にならないのと、そもそも脚本自体が複数提示されるので、しかもそれが同時なので、どれを選ぶべきか、いくつかの中から組み合わせを試すべきなのか、ある程度自分で脚色して進めるべきなのか、判別できない困惑があり、さらに何かしら土台として、前提として暗黙の裡(うち)に納得されている価値観が基底にあるようなところも感じられ、しかしそれが何かはっきりとはわからないので気味の悪さを覚えつつ舞うという体(てい)で、要するに何らかの役を強制されているという感覚から離れられず、遂には演技という枠から出られないので、生全体がよそよそしくなり、白々しくなり、本気ではないものとなり、それが観客にも伝わるので、観客も白けてしまい、けれど演者は舞うのをやめられず、観衆は目を閉じられないので、劇場の温度はさめたまま、熱狂の正反対の舞台が進行することになります。
幕が引かれれば一応の拍手は響きますが、その場にいる誰も心から楽しいとは思っていません。何というか、劇場的悲劇(あわれな劇という程度の意味です)とでも呼べばよいでしょうか。このような状況にある演者と聴衆を正気とは呼びたくありませんので、何となくこれではない真正なものを求めることになるわけですが、その試みが本当の意味で可能であるのか、つまりそれはたんなる不遜に過ぎないのではないか、という疑いが生じ、話は冒頭に戻るのですが、劇場内にいる参加者であるにもかかわらず、あたかも傍観者のような立場を想定するのは、これは認識上の錯誤を含むのと、さらに自己を無自覚の内に現実の在り方から遊離させる方向へ進ませるもので、その先が無自覚な傲慢であるならば、それこそそれを正気と呼ぶのは、何というか、一種の近所迷惑とでも言いましょう。
2025.11.01

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