世は美しいというのはつまり、世は美しく在らざるを得ないということであり、これはある意味呪いのようで、認めざるを得ないもので、美しくない仕方では世は在ることができないので、したがってわたしたちは、その中で生きる人たちは、美の奴隷として、美に向かって生きることしかできず、しかも熱烈に情熱をもって生きるので、二重の意味で奴隷なのであり、すなわち美の命令には逆らえず、また逆らう理由もないので、反抗の可能性がほとんどないので、美の専制は実に安定して続くので、この在り方に亀裂が入るとしたら、おそらく何か外部からのきっかけが、私たちの意志の外において生じることが、そしてそれが私たちに影響を及ぼすことが、必要なのでしょう。
実際わたしたちがすでに行動していることを思い起こすのは、ある程度は有益であるような気持ちがするのです。いつもすでにしてしまっている、これが私たちの条件です。程度の差はあります。しかし畢竟覚醒と睡眠との間は隔絶しているのではなく、連続していると思う方が適切でしょう。深くまどろんでいるか、浅くまどろんでいるかの違い、そう言う方がもっともらしいと思います。こうして会話をしていても、自分の発語がどの程度の明瞭さをもって為されているか、自分には確かには判別できません。半分閉じた目で文字を追っているのだと思うくらいがよいのでしょう。
実際私たちは、罪を犯すであろうから罰を恐れるのではなく、罪を犯したから恐れるのです。もっとも罰を恐れるというのは、適切に罰せられないことを恐れるという意味です。罰を受けるに値しない者と判定されることほど恐ろしいことがあるでしょうか。私たちは罰が欲しい。罰を渇望するほどに私たちは弱いのです。有能な者であれば自分で道を探すでしょうから、罰は自分で設定するものではなく、自分ではない何ものかによって与えられるものであり、それは見方によって刑罰であり、また恵みでもあります。そのような恩寵を期待するほどに、人の心は弱く、生活の状況にも余裕がありません。
しかし私たちのすべきことは、単に待ち望むことに尽きるのでしょうか。あるいはそれだけではないと言うべきでしょうか。私たちはあがくべきなのではないでしょうか。探求者として孤独な者となって、危険な旅に出で、路傍に死ぬべきではないのでしょうか。もちろんそれは適切な仕方で為されねばなりませんが、そこには伝統への限りない敬意と、先人の引継ぎが含まれることになるでしょう。人類の歩みをわたしの歴史として受け入れるという段階を経ることになります。これは批判の前に為されるべきことで、そっくりそのままを肯定しなければなりません。
もっともこのような根本の態度は、ありとあらゆる領域にも当てはまることです。たとえば隣人の為すことが阿呆であれ賢明であれ、わたしの為すこととして認める態度が、まずは取られるべきです。社会のあらゆる領域において、この態度は貫かれるべきです。そうでなければ、わたしは人間ではないでしょう。つまり人間というのは、なかなか限られたものであって、そんなに広い意味を持つものではありません。人間はその都度誰かであって、普遍的ななにかではありません。そういう意味では、あまり大したものではありません。
人間を限定するのは、竟には光でしょうが、その光が輪郭を生じさせて、形がなったとき、そこには美が生まれ、人の目は美に釘付けになって、あわれ羊の群れの誕生です。私たちが羊としてできるのは、草をはむこと、めえと鳴くこと、そして、そしてそれ以外には何もないのですから、草をどのようにはみ、めえとどのように鳴くか、私たちは腐心することにしましょう。私たちに可能性が残されているのかどうか、それを厳密に考えねばなりません。考えるとはめえと鳴くことに他なりません。だから私たちはきちんと鳴かねばならないのです。きちんと鳴くとは方法的に鳴くということです。そしてここで言う方法とは、鳴くなかでのみ見出されるものであり、ほとんど鳴くことそのものです。
2026.08.08

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