曖昧な言葉の使い方を許してほしい。
世界と繋がるために、わたしは目を閉じる。見ようとする目に力をこめることをやめ、呆れて口元をゆるめる。わたしは人々と共にいるために、市場に降りることをしない。差し出された親愛の手を、わたしは握り返さない。わたしたちは会話を交わさない。わたしたちの取るべき方法はそれではない。
目は閉じられ、耳は塞がれる。わたしとあなた、あるいは、わたしとそれは、仲良くならなくていい。親交を深めなくていい。手と手を取り合う方向に進むのは、時間の無駄であって、少しの価値も生まない。手がもし握られているなら、離すがいい。言葉が交わされているなら、黙るといい。そして、どこでわたしたちは繋がることができるのか、思ってみるといい。
広がること自体は自然なことかもしれないが、それは後でいい。まずは沈まなければならない。外へと向かう視線を強いて抑えて、いわば引き戻さねばならない。わたしはわたしたちに成らねばならないけれども、それは驚くような仕方でなされなければならない。一足す一が二になるような仕方で進めば、たしかに数は多くなるだろう。数え切れないほどになるかもしれない。しかしここでは、一の中に二が見出されねばならないし、一の中に多くのものが含まれるのでなければならない。
わたしはわたしの外に見出すべきではない。内に、たとえば歴史を、思想を、物語を見つけるべきである。そのようにしてはじめて、わたしは世界と人と繋がることができるのだし、それはおしゃべりによってではなく、沈黙によって再発見される。
これは現実的な要請であることを強調して置こう。もしむなしさの程度があるのなら、独り語りはとてもむなしく、それよりはある程度の繋がりのもとでの行いはましであろう。孤独はほとんど罪といっていい。それは空虚に響く歌である。人間としては、わたしがどこまで人間として語れるかが、行為の意味を決めるのであり、それがほとんど唯一の価値の基準といってもいいだろう。
もっともこの基準はきわめて基礎的なものであって、まず最初に大事にされるべきものという意味で、階段の一番下の段であるから、その先にも段はあるはずであるが、そこが欠けているならその先はないという意味で、始めの部分である。ここが欠けているのであれば、どんな雄弁も、どんな難行も、どんな成果も、竟にむなしくいたずらである。これは人間が人間の責任の範囲内において選択可能な、ほとんど唯一の行動基準である。であればここにおいては、いかなる言い訳も見苦しく、いかなる弁明も用をなさない。人は人である限り引き受けねばならない。判決を受けることからは逃れ得ない。
ただしこの方向は闇雲に推進されてはならないし、危険があることは認識しておかねばならない。妄想あるいは夢と真の価値との区別がどれほどの確度でつけられるのか、よく見て取らねばならないし、自分を疑うことができないのであれば、別の道のりで危険を察知する工夫をつけるべきである。我々の歩みはたいへん危なっかしいものかもしれないし、ある程度は破綻しているのかもしれないが、それでも歩まねばならないのであれば、自分も言葉も世界も頼みにすべきではないのであれば、寄りかかることのできるたしかな杖を求めることをやめられないのであれば、その中でどこに切り口がありえるか。
追いかける目で追いかけつつも、視界の端に映るなにかに、もしなにかがあるのであればだが、注意を向けられるように、あるいは注意を向けられないのであれば、なにか迂回路を準備して、間接的に端緒とするような、そんな屈折した行為しかできないのかもしれなくても、遂行の可能性を、根拠がなくても信じていなければならない。わたしたちの信仰の最終的な拠り所は、「ものがある」ということであって、なにがあるかはわからないが、それでも何かはあるという、少し投げやりかもしれないが、そんな漠然とした感想である。
2026.07.25

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