余裕がないということ、猶予が許されていない状況であること。わたしが気が付くのはまずそれであり、わかりやすく表現するなら、落ち着いて考えることができない状態に置かれているということで、どういうわけかは見通せないけれども、ともかく切迫しており、一言で言えば、死の可能性があるということが、端緒なのかもしれず、さらに言えば、死が発見されたということ、あるいは発明されたということが、控え目に言っても多くのことを、私たちの存在に提起しているのであって、もし死が見つけられなかったとしたら、私たちの生は純粋な地獄と見なさなければならないことになっていたでしょう。
死という可能性。本当にわたしたちは死ぬことができるのかと追求するなら、これは狂気に至る他ないかもしれませんが、適度にその問題を見つめることで、心の健康を保ちつつ、わたしがわたしでありえる可能性を、信じ続けることができるのであれば、実際に死は薬なのであり、しかも対症療法的なそれなのです。そういう意味では、わたしたちにはまだ死しかないと言ってよいのかもしれません。死に縋って生きているだけのあわれな生き物なのかもしれません。生の切迫性というか、切迫した生という状況は、これは一種の贅沢であって、甘い幻想の生活と見なすべきかもしれません。少なくとも死は、死に直面する生という構造は、物語りのはじまりを予感させます。なんという甘美な幻想でしょう。
単純なことです。わたしがあるものである限り、わたしは絶望する他ありません。魂という実体を想定したところで話の大筋は変わりません。その場合、魂はないものでなければならないでしょう。しかしないのであれば、どうして私と関係し得ましょう。ここで帳尻合わせの神に登壇願いましょうか。それも一つの道かもしれません。きちんと精査しなければなりませんが、私たちにはもはや信仰はしかし許されていないと思います。神をもし利用しようというのであれば、これほど不遜な態度もないでしょう。神をもし愛するのであれば、愛したいのであれば、まずはあるものであるところの神をわたしの中から捨てねばならないでしょう。
単純な話です。隣人を愛するのと変わりません。隣人を愛せない者に、どうして神を愛することができるでしょう。そして隣人を愛することの可能性と不可能性に悩む者であるならば、神に対しても同じように悩まねばなりません。思うべきは、隣人も神も死も、何らかの価値を持つものとして、わたしと関わるという点です。わたしは本当に神を愛することができるかという問いは、わたしは本当に死ぬことができるかという問いと、ほとんど同じと言ってよいでしょう。神を愛したい私は、死にたい私であり、総じて言って、誠実でありたい私です。
神の発見と死の発見が、人に誠実であることへの可能性を開くのだとしたら、この構造の中でわたしという役者は、台本に従って演じつつ、演じる以上の何かをしたり何かを聞いたり何かであったりできるのか。これはわたしの夢想でしょうか。実際、自分の手がナイフを握り、その手が自らの腹をえぐり、心の臓をついたとして、それで何が達成されるのか。それで自分が殺せるのか。何とも味気ない、白けた幕引きになるでしょう。もっともわたしがもしいるのであれば、どうにかすることもできるかもしれません。関心の網の目をいくら丁寧に解きほぐしたとしても、その向こうにわたしが姿を現すのかどうか、それはわかりません。わたしがそもそもいないのであれば、わたしを云々するのは、恣意的な空想の云々でありましょう。それは茶番というものです。これであるようなわたしは、あれであることもできましょう。このような変化の可能性をわたしは言いたいのではありません。
2026.05.30

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