手紙 39

わたしは何らかの思いを述べたいのではありません。ここでは語るべきことがありませんから。わたしは自分の感情を吐露したいのではありません。ここには感じるべきなにものもありませんから。わたしは何らかの企図のもとに行動したいのではありません。ここはむしろ行動した後に落ちて来る場所ですから。

そうではなくて、ここでは読み上げられるだけなのです。その声には何の情感も籠っていませんし、その内容は何かを指示したり意図したりあるいは伝えたりするものではありません。そうではなく、今すぐ後ろの窓の外から葉に当たる雨粒の音がするような、日の出前に鳴く虫の声が、小さく薄く響くような、そのような、あっても気にとまらないし、なくなったとしても気が付かないような、そういうもの音に過ぎません。そう思います。

さて、歩いて参りましょう。背中に生えている羽根は無視しましょう。それはたのしい幻とみなすべきものです。たまには飛ぶのもよいでしょう。若い内に、死なない程度には羽目を外すべきかもしれませんが、どうせそのうち飽きるので、放っておきましょう。

歩いて行かねばならないというのは、心構えというよりは、方法に近いのであって、走ったり跳び越えたりしないという程度の意味なのですが、別の言い方をすれば、現在に定位するということで、現在というのがではどこにあるのかと言えば、どこかではないここ、他ならぬここ、そこという語の指す方へ向かってみれば辿り着くそこではなくて、ここという語に矢印がないのであれば、ここという語を前にして立ち止まる、その停止が可能性を含むような沈黙であれば、そういう場所、でありましょう。わたしは今あえてそこと言いますが、そこはわたしたちの帰る場所であり、故郷であり、家です。遠くにあるものというよりは、常にあるものであり、ある意味では隔絶しているほどに、辿り着くには最も遠い場所であり、紙一重の裏側にあるという意味では、最も近い場所と言うこともできましょう。

歩くからにはどこからか歩くのですが、そして人の生ははかなく、どこからでも歩けるように思われているので、間違いに気が付くということが稀であるのが常なので、そのまま動き続けるのであれば、冒険が続いているように思われましょうが、端的に言って徒労そのものであり、進めるところまで進んで、いかにもその道のりの苦労は計り知れず、頭の下がる思いですが、疲れ切って倒れたあと、切り開いた道の先の開拓を継続する継承者もいないので、いたずらに森の景観は損なわれ、時間が立てば草が生え木が伸びて元通りになって、またそこを頑張って切り開く先駆者が現れるという始末なので、本当に人は同じ場所で全力疾走し続けるのが趣味なのではないかと感嘆されるばかりで、hamster wheel(回し車)の中で走る鼠に理想の生を見て取るのであれば、こうした人の性向を抑え、立ち止まらせるのは、ある意味では暴力によるのでもありますから、苦痛であり、望まれる道ではないので、稀であり、したがって世は回し車のカタカタと鳴る喧騒に満ちてたのしいということに陥りやすいのですが、楽しい時間は終わりにして、回し車を降りて、たぶんゆっくりと歩き始める個体もいて、その個体の特異な行動を目にして、それにならう他個体もありましょう。ただ思われますに、出発できるような家があるのか、それは本当に家なのか、ここも幻想ではないのか、たのしい場所の一つではないとどうして言えるのか、疑念が晴れないのであれば、そして家はそもそも暖炉と豊かな食物のあるしあわせな場所ではないのであってむしろその反対に近いのですから、回し車の鳴る音と行く川の水の絶えないのが自然の姿なのかもしれません。

わたしたちは走り続けるべきなのか。これが問題です。その問題の立て方自体が問われるにせよ、手がかりがあるというのは不思議なことです。歩むというとき、どこかへ向かっての歩行が目論まれているのではなくて、どこかへ向かっていた足を止め、現在へ帰るという過程が今は指摘されているのですが、その是非はあるにせよ、そもそもこうした言論があるということは、奇妙なものです。

2026.04.04

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