生まれて間もない若人が、目覚めて天地に立ったとき、反抗的な感情に同伴されて、一種の強い疑念を抱くのと、方法的に無力であり頼りなくあてどなく寄る辺ない場所に至るのと、どちらも人の身には起こることですが、両者がどのように異なるのか、思いを述べてみましょう。
青年の方の特徴は、既存の体制への反発です。自らがすでに何らかの仕組みに組み入れられていることに気付き、しかもその全体的なかたまりに賛同できない場合、義憤に似た強い情動が生まれます。おそらくしかしほとんどの場合、怒りではなく無力感や自信喪失といった負の現れに傾きますが、どちらにせよ防衛的な反応と言ってよいでしょう。これは反抗期と呼ばれる段階なのでもありますが、生得的な探求者として、青年は「わからない」と叫びます。その根底には一種の甘えもあります。周囲の大人に対する批判を舌鋒鋭く展開しますが、大人は満足な答えを返すことができません。青年は本当には孤独ではないのです。染みついた倚りかかりが見られます。自責ではなく他責に向かいます。周囲からある程度愛されている青年であれば、それを当然として、他者への批判に結果します。
自分で責任を引き受けるという態度はたぶんその後のことなのです。もし青年が自ら命を絶たないのであれば、生き残りは大人になり、甘えをやめざるをえず、頼るべきところを失った場合には、自分で人間の無知を引き受けざるを得ない羽目になります。「羽目に陥る」という点が肝心であって、赴くのではなく、落ち入る他ないのは、それを自ら選び取ることが困難だからでしょう。必然的に至るのか、偶然にたどり着くのか、どの程度至るのか、これは状況と性向次第であって、至ったところで、そこに留まるか、忘却看過して他事に過ごすか、様々な場合があるとしか言えません。
転じて、方法的に至るという場合、そこにはある程度の自覚があります。そこでは利用ということが行われようとしています。そして目指すのは解決ではなく、むしろ引き延ばすことであり、回答を求めてやまない知性を抑制し、答えに至らないことです。青年として体験した出来事の記憶が役に立つのかもしれませんし、そうした体験がないならば、次の段階には至らないのかもしれません。であれば、青年と大人との間というのは連続であって、一つの途上なのだと言うのが適切かもしれません。青年が大人にならざるを得ない事情もよく見てみたいものです。ならなくてよいものであれば、ならないでしょうから。
つまり青年ははじめ自分の周囲の世界に対して問いを投げたのでしたが、そこでの失敗が続いたとき、少し冷静になった彼/彼女は、まなざしを自らに向け始めます。いわば戦うべき相手が自分の方になるので、そしてこれはそもそも成立自体が可能であるのか疑念があるような格闘なので、この戦いは特殊な様相を呈することになるわけです。私は私なのに私のまま私を相手にしなければならない。ここには不思議な難しさがあります。目が見るのは畢竟自分ではなく鏡に映った自分の姿です。光自体を直接捉えられるのかということでもあります。目に映るのは実際、照らされたものなのであって、それらのものはすでに照らされてあるのが常です。そして人間の思考が、何らかの解決を目指す一種の道具立てを超えられないのであれば、その枠組みの中でことを進める他ないのでして、それが方法的活用とここで呼ぶものです。
大人はすなわちあるものを利用します。あるものはすでにあるのですから、それは完全に自らの制御化に置けるものではないので、ある意味断念しつつ、迂回路を探して、薄目を開き続けます。これは青年の歩みのひとつの至る先なのであって、自由あるいは応答責任性が深刻な問題となるというのは、それが問題となり得るのかという疑問なのでもあります。何らかの問いの解決が目指されつつも、(うたたんは眠くてそれどころではないのです ←机から離れている隙に家族の者が左の一文を付記していました。これは実際その通りです。戦火にあったり飢えていたりする者は疑問を追うどころではないでしょう。ただ思いますに、それらは状況であり様態であって、本質ではないように思います。うたたんというのは、白いうさぎのぬいぐるみのことです)その構造の中から外に出ることなく、しかもその構造を疑うことができるというのは、まるで根拠のない夢物語のように聞こえます。
あまりに楽天的に過ぎるようです。どうして私が希望を保持できているのかについては、精査する必要がありそうです。進め方としてはただ従前の通りでして、言論に語らせるということでして、ことばの通る道だけをあるものとして思い定める態度の徹底でしかありません。私は「誠実」という語でこうした態度を表したいと思っています。語られたことばだけがすべてです。ことばをですから辿りましょう。その先に何が待っているか待っていないか、それはわたしの預かり知らぬことです。
ただこれもひとつの態度に過ぎないのかもしれません。言葉に従うと言ったところで、言葉の紡ぎ手が必ずそこにはいるはずですから、文字通りの滅私奉公になるはずはありません。どうしても関係が問題になってくるでしょう。太陽が昇るから私は目覚めさせられる、と言った言述はひとつの表現であり、それ自体何らかの特殊な在り方なのでしょうから、その関係自体が変化してゆくとすると、それこそ言葉に語らせましょうといった類の談話は、何らかの処遇の表現に過ぎないのであり、それ自体変化してゆくべきものなので、そう思えば結局は拠り所はないのであり、つまり誠実さに真理という価値を付与することはできないか、できても一時的なものに過ぎません。それは頼るべき杖としてはあまりに脆いと言わねばならないでしょう。
2025.12.06

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