手紙 13

あらかじめお断りしておきますが、今日は筆のままに書くことをお許しください。整った筋目は立ちそうにありません。すでにそれはよくわかっているので、もしお付き合いいただけるのであれば、勘弁を願います。たぶんわたしがまず試みるべきなのは、我が身の置かれた状況の改善ではなく、どちらかと言えばその真逆で、むしろ状況を先鋭化させること、問題を増幅させ、はっきりとした輪郭を取るまでに至らせることのように思われます。とは言え、解決を目指して動くしかないのであれば、その動きの中で正反対の向きに顔を向ける他ありません。

解決は確かに終着地かもしれませんが、そしてそこに到るしかないのかもしれませんが、それでもそれが本当に目的の地なのかどうか、これは疑ってみなければなりません。疑うことが可能な限りにおいてではありますが。着いてしまったら終わりなのですから、そこに到れば疑いも晴れるわけで、であればその過程の間だけが機会なのです。少し滑稽な状況ではあります。出発地点と到達地点の定められた競技の枠から出ないままに、出発から決着までその競技に参加して着地を目指しつつ、その目指すという行動のただ中において、意識だけを別の方向へ向けなければならないと、今我々は主張しているのです。

おそらく後ろを振り返ることはできないので、前方に固定された視線を変えることはできないので、目に映る到達地点の旗を見つめながら、その色合いや揺れ具合に、何らかの仄めかしを得られはしまいかと、いくばくかの関心を寄せる他ありません。競技が白熱したらそのような関心はすぐに脇へ追いやられてしまうでしょう。それを制御する権能は私たちには与えられていないように思います。私たちにできるのは、束の間の休止において、もしそのときたまたま幸運にも思い出せた場合には、目指すべき旗を見つめながら、その旗の中に何らかのヒントを探す程度のことです。私たちの運命というのであれば、ゴールに到達してしまうというのがそれでしょう。あらゆる問題は解決される、それが引き受けるべき宿命なのですから、私たちにはあまり多くの機会はないのだと思います。

このように見て参りますと、現在の在り方がはたして楽境なのか苦境なのか、なんとも判断しかねます。私たちがまだ在る時点で、何らかの動きの中にあることが明らかと言えるなら、すでにここは道の途中なのであり、道程なのですから、まだ至っていないという点については、それを苦しみと捉えるか、可能性が残されているという意味で楽天的に捉えるか、どちらのようにも受け止めることができます。あるということは物の側から見た場合、苦しみでしかありません。生存というのは純然たる苦難です。しかしこれは同時に、あちら側から見れば、混じり気なしの幸福そのものである可能性もあります。

そのように理解しなければいけない時が来るのかもしれません。その時は、あるというのは絶対に幸福であると言わねばならないのかもしれません。そのように語る人の口がいびつに歪んでいたとしてもです。もっとも、一番肝腎なのは、語り手が発言を許されているかどうかなのだと思いますが、その場に立つ前に、本当に可能なのかどうか、確かめねばならないでしょう。可能性があるのかどうか、そしてもしあるのだとしたら、実現の目はあるのかどうかを検討しなければなりません。

2025.09.27

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