手紙 11

わたしは歌を歌いたいのかもしれないと、ふと思いました。というよりこう言いましょうか、わたしの試行はまず歌に似たかたちを取って現れることになる、と。歌を目指すわけではなくて、結果としてそれは歌になってしまうという、そんな先行きが浮かびます。それはですから、歌と呼んで正確なものか、判定できかねるところがあります。どうしてわたしの脳裏に「歌」という文字が生じたのかを見ると、第一にそのたどたどしさの故、それからその文法の故、さらにその祝祭的な性質の故、そんな感じでありましょう。

たどたどしいのは、これは決然とした英雄的、あるいは計画的な進行の対極であって、先行きの見通しのない、ふらふらと定まらない、行きつ戻りつの、徘徊の観を呈するものですので、日常的に地上で生物の運動として見られる動きとは隔絶した、世間の価値基準から見れば最低であるような、本当に愚にもつかない営みである以上、表面的に見ると唾棄されるべき行いと評価されるのが当然です。目的があってそこへの到達のための手段としての行為なのではなく、様々な思惑に囲まれて、一種の錯乱状態にありつつ、その中で痛みと諦念自体の重みに身を任せ、沈みゆくままに沈む。そんな在り様の物体から出される音が、人間の口からはことばとなって漏れるとき、それを形容するのに一番近いのが「歌」だったということです。

そしてその法について言えば、既存の生活言語の法則とは異なる生成過程があってしかるべきなので、広い意味での文法は同じではなくなると思うのが自然です。そもそもことばのかたちを取らなければならないものでもないでしょう。それは遡行における火花のようなもので、摩擦や衝突によって自ずから生じる火花がそれなのですから、それがどのようなかたちを取るか、ことばか、図形か、旋律か、それとも踊りか、皮膚の粟立ちか、それは各様に定まっていないのではないでしょうか。ここにおいては、たまたまことばとして現れたと、今はそう放っておきましょう。

最後に祝祭的と言いましたが、この言葉の在り様はどう考えても散文的ではありません。何かについて述べたりするものではないですし、人々を鼓舞する演説でも、理路整然とした論説でもありません。ここにはしかし、犠牲的な何かがあります。自らの身を供物として捧げることが含まれます。何かの死を眺める視線が、しかも多数の視線が、集中します。その視線はゆるぎないもので、熱量とかで形容されるものというより、単に狂気といった方が適当です。まばたきを忘れるのではなく、目が乾いて見えなくなるまで閉じられないことが当たり前であるような、全霊をかけた儀式なのです。そこに誰もが参加するのであれば、それはいわばごく普通の光景であり、それが自然な祭りとなるのでしょう。

さて、であれば「私は歌を歌いたい」と言うのは誤解を招く言い方ですが、他に適当な呼び方もないので、差し当たってはそう言っておきましょう。この類のことばを指し示すために、新しい語を揃えるのもよいでしょう。私は昔の書き物で「探索言語」という語を用いました。今やただ探し求めるというよりは、あきらめの末に沈みゆく船の中で綴られる記録というのが近いのですから、別の形容が相応しいとは思います。遡行言語では力が抜けていませんし、何度も言うようですが、冒険の活力も希望もここにはありません。

どのように語るか決められる言語ではなく、もはや後ろに引けるものでもなく、もちろん言葉にならなくても、沈黙でもよいのです。どうしてこのように、いわば外堀から埋めて行くような迂遠なやり方を取るのかと言えば、つまり一直線に本丸を目指して突入したり計画したりするのではないかと言えば、それは本丸を想定した瞬間から錯誤が始まるような、そこからすでに異なる営為になってしまうような、目指した瞬間に我々の企図は終わるような、そんな行為だからに他なりません。周囲を取り囲んでお濠を埋めて逃さぬように追い詰めても、はたしてそこにいるかどうかはわかりません。だからあらゆる計画や企図やはかりごとは、我々には縁遠いものと言わざるを得ません。

もちろん城を攻め落とすのが目的であれば、そのために準備をし図り実行するのが当然ですが、その成功や失敗の裏側で、忘れられているものがないかどうか、思い出すこともあるかもしれません。攻城戦の最中に足を止めて突っ立っていれば、敵の矢を受けるか味方の督戦隊に斬られるかする他ありませんが、痛みと共に倒れ行く僅かな時間でも、周囲の怒号の中、ふと思い出すことがあるのであれば、それは小さな歌の芽生えではあるのかもしれません。

大丈夫です。生活には敬も不敬もありません。もしそうしたものがあるのだとしたら、私たちの在り方こそが問われているのであり、罪も罰も、私たちの問題なのです。私たちはそのような仕方で問う、ということです。つまりそのような仕方でない問いもあるかもしれませんし、おそらくは乗り越えられるべきところなのかもしれません。よく喋る口がうるさいのではなくて、お喋りをうるさく聞く私の耳が焦点なのですから、問われるべきは口か耳かという処世上の話であります。

2025.09.13

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