踊り手の美に賞嘆する目が、工業製品の美に盲目なのは、個人的な嗜好の差によるのであって、どちらにも美を等しく認めるような目を想像してみることは、容易にできることです。
美というのは体験されるものです。自分がこの身で表すものです。鑑賞という出来事は、追体験あるいは追創造といえます。一度沈んで、再び浮かび上がって来て、そこで始まるものであり、ある意味でそうしたすべては祝祭的な性質を持ちます。作品の制作には、いわば死と再生がつきもので、それがない製作物は、一種の遊戯に過ぎません。死も、復活も、どうして生じるのかは知られませんが、どうしてか起こるものであって、それが起こったことをわたしは、口を開けて眺めることしかできません。
本来はそこに美醜はないのかもしれません。それは後付けの添加物かもしれません。そこにあるのは運動であり、それから細い糸ではなくて太い糸であり、つまり豊かな膨らみを備えた、何か爆発的な力のあるものです。その力が大きくなって発展した結果、美という形にまで至ることがあるという話であって、元々の現れに目を向けるなら、見えるのは小さく細々としたみすぼらしいものかもしれませんが、そこに秘められた力は隠しようもなく、見る者は驚かずにいられないでしょう。
それは仕方のないものです。わたしがどうこうすることの届かぬものです。わたしにできるのはただ黙って見届けることで、勝手に育つそれを、わたしは愛情も憎悪もなく、期待も失望もなく、諦観することしかできません。所詮それは花火の美しさであって、一瞬の火花のきらめきであって、脳裡に印象を刻んで消えるだけの花です。世は美しい。それだけのことです。その美しさ全部を、余すところなく堪能したいと、わたしには思えません。だからこう呟いてみるだけで、それ以上には進もうと思いません。世はきっと美しい。それだけのことです。
あるものは美しい。正確に言えば、あるものはたぶん美しい。灯火に引き寄せられる蛾のように、それがなにかわからないままに、わたしたちも引き寄せられるのでしょう。わたしがかくあれと言ったから、こうなったわけではなく、わたしとあるものはまったく同一だと感じられないので、つまりずれがあるので、いやあるようなので、わたしの鼻先で勝手に展開する絢爛な絵巻物に、呆気にとられ、鼻白んだまま、少しのかなしみとさみしさで、追いかけますので、わたしは疲れ、そのうち倒れざるをえません。そう思えば、美はどちらかと言えば、憎らしいものではあります。
生きて死んで黄泉返る。これがわたしたちの日常であるので、美はわたしたちの生活の中心を成すものであり、したがって陳腐で、離れることができないので、嫌でも従わざるをえないので、熱烈に愛しつつ、けれど嫌悪の情は絶えることなく、それが結果としてわたしたちの顔の表情に現れるのでありましょう。わたしたちに必要なのは深い体験なのでしょうか。つまり新しいかたちのお祭りなのでしょうか。わたしはごめんです。そういうものはもう結構と言いたいです。それは今までさんざん喰らって来た皿ですから、我々のおなかはもう一杯です。
とはいえ、わたしたちは従うことしかできないのであれば、あるいはきちんと、というのは我々なりの仕方でということですが、再生の過程を共に体験すること、つまり見て行って我々がそれとなるという出来事の生起ですが、をすべきなのかもしれませんし、わたしが忌避感を覚えるのは、そのやり方のまずさ故であって、もっと適した仕方であれば、それは歓迎されるのかもしれません。
美の力は恐ろしい。美の幻は実現されるでしょう。どのようにしてか実現されることがないということはないでしょう。わたしたちに与えられる、幻としての、あるいはきっかけとしての美のきれはしは、一部でしかないのでしょうから、もっと偉大な、わたしたちの視界にも理解にも収まらない美がその先にあることは、想像されます。
どちらかと言えば、一個の生活者としては、美は避けられるべきものでしょう。生活の手には負えぬものですから。しかしそれを避けているままでは、生活は疲弊するだけのものとなり、いつか病んで倒れることになるでしょう。生活者は個人的な工夫でその危機を乗り越えるのかもしれません。何にせよ、生活において、美が関わることだけは、銘記することにしましょう。
2026.08.01

コメント