手紙 49

わたしたちは、おそらく、準備することができません。戦場に立たされるとき、わたしたちは常に丸腰で、武器はおろか、身を守る布切れ一枚すらありません。それでも立ち向かわざるを得ないのだとしたら、あるいは、逃走ではなく対峙を選択するのだとしたら、この命がけの戦いで、わたしたちが生き残る確率は、ほとんどないといってもよいくらいです。一番大事な戦闘に、小さなナイフ一本も持たずに臨む他ありません。どうやって戦うことができるでしょう。攻撃する術も身を守る手段もありません。

戦いは本当にむなしいものです。結果がどうであれ。興奮も悲嘆も歓喜も起こるかもしれません。しかしそこには大きな波や小さな波があるだけで、生じては消えるだけで、ただ単にそれだけのことで、動いているものがあるだけで、それが他ならぬわたしだというだけで、わたしはこの動きの中から抜け出すことができないと認めるのがせいぜいのあがきと言えましょうか。その認めるというのも、けして外へあるいは上へ抜け出しての行為ではありませんから、総じてかなしいのですし、人間らしいのですし、超出できない身でもって、動きの中に投じられた身として、与えられた時と場所で動くしかありません。

ここにどんな方法の可能性がありえるのでしょうか。それこそわたしには信じられません。人間の知が、まさに人間が人間であることを認めることに究極するのだとしたら、まことに、そんなにつまらないこともないでしょう。冒険に意気揚々と出発して、ついに得られた宝物は、わたしがわたしであるという、ただそれだけの認識なのです。それは敗北なのでしょうか、それとも勝利なのでしょうか。

実際、わたしがわたしであるということを知るために、わたしには迷妄が必要なのであり、忘却が、日常が、必要なのであり、照らされるためには、暗闇が必要なのであり、この構造の中で動くことしかできないのであれば、この大きな物語に抗うことができないのであれば、わたしたちがすべきことは何もないのであり、というのはわたしたちには他に何もできないのですから、後に残されたこととしては、わたしたちが認識するあるいは知る物語と、ここで言うところの大きな物語とのずれを、埋めるための努力というものが、生のちょっとした刺激あるいは色取りともなりましょうが、最終的には、大きな物語はわたしたち自身と一致するのであり、それこそがあるものなのですから、認識を飛び越えて、そことの合一を直覚するのが、手っ取り早くて、ある意味賢いやり方なのかもしれません。

しかし思うに、大きな物語というのは空想の産物であって、想定されるものではあるかもしれませんが、わたしたちに認識される物語は、必ず何らかの解釈であるに過ぎないのですから、いわば知られざるものとしての大きな物語を適切な位置に置くことで、わたしたちは生の健康を取り戻せるのかもしれません。もしそうであれば、わたしたちは幸福の影におびえなくてもよいのかもしれません。解釈という行為の中に、自由の源泉を見たいわけです。それが自由なのか自由らしいものなのか、どちらでも大して変わらないと思えるのであれば、わたしたちが送る地上の生は、正義と不正義とで意味づけられて、なにかしら楽しげな舞台となるでしょう。

実に、思い出すためには、忘れていることが必要なのです。ここで心にかけるべきは、自分は誰でもないものではなく、現に誰かであると認めることでしょう。わたしは誰かである、この言葉にすると恐るべき事態が事実であると認めることです。この事実は不可解です。わたしは詐欺にあってしかも騙され続けていることに気が付いていません。無理からぬことです。他ならぬこの詐欺師は善意のものであり、わたしの幸福安寧のためにわたしを騙すのだとしたら、わたしは進んで協力こそすれ、抵抗したいとは思わないでしょうし、もし思う者がいるとしたら、彼は単なる愚か者以外ではないでしょう。幸福への道を進んで手離そうとする行為を賢明と呼ぶなら別ですが。それにもしそう称したとしても、そもそも反抗が不可能である中で反抗を空想するだけなのだとしたら、その空想行為はあまり健康とは呼べないでしょうから。

2026.06.13

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