わたしはわたしでありたい。これが本心なのです。わたしは今わたしではないかもしれない。言葉にするとそういう感覚に、たしかにときにぶつかります。わたしはものを思い、ものを食べ、飲み、自分や他人と話し、移動して、公共の活動に参加し、疲れたり、活力や愁いに満ちたりしますが、こうした活動を行っている自分は、あれであったりこれであったりするような自分であって、結果としての自分であって、動かされる自分であって、日常生活の喧騒のなかでも、折に触れて、ずれを感じ、違和感を覚え、思わず立ち止まるといったことが起こります。
この違和感は小さなものですが、騒がしさに紛れて見えにくくなるものですが、人の絶え間ないおしゃべりを、一瞬なりとも止めるほど、真っ白な紙面のなかの黒い一点のようで、気にかかります。普段は表には現れず、隠れているので、ほとんど忘れられているといってもよいですが、どういうめぐり合わせか、再び人が突き当たる行き止まりです。
今わたしの筆は懺悔に近いと思います。離れていることの自覚と悔いの表出です。ある意味でとても感情的な筆跡で、反射的なあるいは応答的な、しかもほとんど本能的な行動です。ここには洗練や熟考やあるいは冷静な判断が少ないので、どちらかといえば、混乱や乱雑といった様相を呈しますし、直線的な進行にはなりませんので、同じ場所を行ったり来たりする、徘徊に似た運動となります。
わたしはわたしでありたいと言いましたが、それはふとした感想に過ぎませんので、その思いが行為になるためには、その感想が保たれねばなりませんが、人の生のほとんどを構成する日常の核心は、まさにそれを忘れて過ごすことにあるのですから、というのも、人は市場に足を運び商談をしなければならないのですから、このしなければならないというのは、そして、おそらく意味があることなのであって、人の生活の円環運動は、まずもって見つめられるべきであり、たとえば頽落などと、かんたんに片づけられるべきものではないと、そう思っていた方が、どういうわけかは見通せませんが、よい気がするのです。この違和感の正体がなんであれ、というのも今はまだわかりませんし、わかりようもないのですから、この端緒が人々をどこへ導くのか、慎重に視線を注ぎたいと思います。
幸福にならざるをえないような存在がわたしなのだとしたら、そこにあらがうことができないのだとしたら、その流れの中で、わたしにどんなあがきが許されるでしょう。人は不幸を恐れますが、それよりもはるかに恐ろしいのは、幸福です。逆らうことができないほどの波に呑み込まれることを恐ろしいと思うのであれば、幸福ほど大きな波もうねりもないでしょう。幸福は大海に似ています。人はその上に漂う芥子粒のようです。
今はこの筆の感情は反省的かもしれませんが、今後もそうであるかは知りません。今は段階としてこうであるに過ぎないと感じます。言うなればこれが、つまりこれが一つの段階であるという感覚が、方法の可能性をわたしに信じさせるのであり、結局はわたしの信仰は、方法の存在という点に置かれているのかもしれません。無邪気に信じているだけなのかもしれません。もっとも信じるというのはいつも無邪気で幼稚で根拠のない理不尽な、しかし強烈なものに違いありません。
言い方を変えましょう。わたしはわたしに成ることを信じているのではありません。そうではなく、この状況が方法の一部になり得ることを信じているのです。これはわたしの希望であり、これが現状わたしのたったひとつの持ち物です。この希望を奪われるのであれば、わたしは手離すまいと本気で抵抗するでしょうし、もし取り去られたとしたら、わたしは本当に絶望するでしょう。
人は根底では楽天的なのだと思います。信じていられないとしたら、生はままならないでしょう。こうした人の無条件の頑迷さは人の貌に現れていると思います。その出てしまっている表情あるいは顔つきは、醜くもあり、幼くもあります。今ここで言うところの「信じる」は、人の身が幸福という巨大な手で掴み取られた結果であり、つまりは信じさせられているということなのですが、信じるというのは心底からの、真底からの切実な行為であって、自発的な行為の一番目なのであって、この行為の在り方が人の顔を決めていると言っても、大げさではないと思います。
根拠なき確信。これほど強い芯もありません。
2026.06.06

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