手紙 46

わたしは何らかのものである。遺憾である。自分が何らかのものであることは、わたしの尊厳を傷つける。屈辱に他ならない。わたしは何らかのものとしてある。そしてなにものでもないものとしてあることができそうにない。いやそれははっきりとはわからない。しかしはっきりしているのは、わたしが何であるかは何でもよいということ。どうでもよい。わたしには何かであるということしか重要でない。程度の差に過ぎない。ここであるというのは悪と言い替えてもよい。わたしは何らかの悪としてある。どの程度のあるいはどのような悪であるかは問うところではない。悪であるということは文字通りに受け止められねばならない。わたしはたとえば今悪として書いているのであり、ここから逃れることができない。逃れたと感じたとしても、それは別の新たな悪に移ったに過ぎない。進んで悪を望むことはできない。けれども悪を引き受けざるをえない。

あるものは悪である。自分は悪ではないと思うことはできるかもしれない。しかし思うというのがあるものであれば、それも必ず悪であり、言ってみれば正義というかたちの悪に過ぎない。善がもしあるものであれば、それは一種の悪であるから、善はおそらくない。ないのであれば、それはわたしと関わりを持つことができない。善の探求は不可能である。善をもし見つけるのであれば、それは何らかのあるものであるから、それは悪である。発見した瞬間、善は悪となる。

ここで、このような場所で、わたしは何を望むのだろうか。わたしはなんらかのものである他ない状況で、わたしはどうすれば、自分に誇りを見出せるだろうか。人の世の価値はここでは問題ではない。しかしわたしはその中にある他ない。不可能にぶつかって、錯乱する個体が後を絶たない。正面から対峙すればそうなるのは道理だ。わたしはうまくやらなければならない。方法を見出さねばならない。不可能を不可能なまま外に出ることなく遂行することがここでの課題である。ここにおいては慎重にならざるをえない。足を一歩踏み外せば取り返しがつかない。涙を流すこともできない。感傷に流れることもできない。それは誠実な態度ではない。というのはそれは知らないものを知っていると思うことに他ならないから。もっともこうした投げやりさはある程度は許容されるべきかもしれない。これは共同作業なのだから、わたし一個の事業ではないのだから。人間が人間であるために、わたしは穴の開いた甕で水を汲み続けねばならない。少なくとも今はこの作業が必要なのだ。そうでなければ、人間は人間ですらなくなる。

わたしは悪である。わたし自体が悪である。であればわたしは悪としてどのように為すことができるか。これは冒険ではない。終着地点が見えないから。どこかへ行く旅ではない。わたしはわたしから出発してどこか別のわたしへ移ることができない。風景が変わっても、眺める目はわたしのものだ。悪はたしかに罠に似ていて、人は自らその陥穽に落ちる。罠は人を誘う。捕まえたら容易に離さない。自分が罠にかかっていると思わない人もいる。悪が善の欠如であった時代をしあわせな時代と呼んでもよいと思う。それはわたしたちの過去である。今は善の可能性が信じられない時である。悪は乗り越えられるべきものではもはやない。悪は引き受けられるべきものである。

これは自暴自棄とは異なる。衝撃で心が一時停止したのでもない。むしろこれをわたしたちの方法と認めるべきであって、その先に活路が開けるか開けないかは、残念ながら何とも言い様がない。たしかに認めないといけないのかもしれない。わたしたちは愛しているのだと。なにか真なるものを。何を真とみなすかはさておき、渇望しているのだと。自分が連関の中に置かれた物の一つに過ぎないと認めるのは苦々しい。畢竟、わたしがないように思われるから。わたしが本来思われているようなわたしではないという認識が苦い。わたしが動かす側ではなく動かされる側であること。流されるままであること。

2026.05.23

コメント

タイトルとURLをコピーしました