手紙 32

「わたしの仕事は祭壇を建てること。今は一面の原っぱで、そこに個々人が散らばってめいめいに営みをしている。そこにある日突然台ができる。粗末な台でもいい、板切れ一枚でもいいし、そこらの岩を見立ててもいい。わたしは毎朝ほこりを除き、花でもあればそっと置く。近くに住む人々は気になって寄って来る。中には掃除を手伝ってくれる人もいる。幾人かは手を合わせるかもしれない。

粗末な壇が中心となる。人はその前に跪き何を祈るのだろう。自分の願望の成就を祈願するわけではないだろう。恨み事を重ねるのでもない。賛美の歌でもない。その言葉は、わたしたちの言葉は、ある意味で冷たい響きがする。それは熱烈な調子とはほど遠い。悲しみでもなければ喜びでもない、諦念すらない。澄み切っているわけでも、濁り切っているわけでもない。ただ淡々としている。疑念はない。おそらく言葉もいらない。眼差しが十二分に語るだろう。

期待をもって集まる人から去って行く。ここは何かをするための場所ではない。この地上で、どこでもない場所を造り、そして維持するための、空き地のようなもの。定まった土地に建築するものではなく、あるいは建てたとして、時間の過ぎる内に、いつの間にか最初の役割は消え、俗な神殿に成り変わってしまう。事の必然としてそういう変化が生ぜざるを得ないようなもの。このような変化が起きるのは、祭壇の成立事情をみればよく了解される。

祭壇は祈りがあってはじめて存立する。まず行為があり、そこが祭壇となるのであって、逆ではない。であれば、祈りのない祭壇はもはや単なる板であり壇である。場所というのは、行為の求心点以上の意味を持たない。ただし、人々の行為となる際には、やはりひとつの場所が、市場のような場所が、望ましいのであって、そうしてはじめて、そこがわたしの祭壇ではなく、わたしたちの祭壇となる。わたしはそこで司祭を演じるのではない。わたしはそのまわりを掃き清める掃除夫に過ぎない。わたしにはペンではなく箒がお似合いだ。それでいいと思う」

しかし祭壇とは言いましたけれど、何を祀る建築なのか、私は教えてもらっておりません。人間たちが信仰する神や仏の類でしょうか。あるいは求心力のある生きた誰かでしょうか。それとも何らかの思想でしょうか。図像でしょうか、音楽でしょうか。いったい壇上に安置されているのは何でしょうか。何も置かれていないのでしょうか。何に祈る場所なのでしょうか。そもそもそこは人間が祈る場なのでしょうか。祈りというのはとても限定的で、肉体を持った存在物ならではの、具体的な行動であって、そういう意味では飲み食いと同じで、ある意味で仕方のない行為に過ぎないのであれば、ここにわざわざ大げさな何かをこしらえるほどの価値は、わたしにはあるとは思われません。

はじめに確かなことから申し上げれば、ここに集う者たちは、なにかがほしくて集まったのではありません。何かの実現を求めて、その行動の一環として跪くのではありません。もしそうする者があるなら、それは場違いと言うべきであって、そのようなつまらない行いをするくらいなら、川辺に行って身をすすげばよいだけのこと。ここまでやって来る必要もありません。ここに入らんとする者は、はじめに我が身のことを忘れなければなりませんし、世の関心の網の目から抜け出ることはかなわなくても、そこにとらわれたままで、その関心を持ち込むことはつつしまれるべきです。

ここでは人は首を垂れるのですが、それは敬意や畏怖のせいというよりは、首が疲れただけのことで、普段いっぱいに入っている力が抜けて、抜け殻のようになり、少しの反省も加わって、なんとなくそうなるだけのことです。人はここでは「はい」としか言えません。けれどわたちたちに命令するなにものかを前にしているのではないのです。むしろそうであればどんなに生は単純で愛らしいものであったことでしょう。どんなに物語らしく、深く美しいものであったことでしょう。どんなに意味のたくさんつまった複雑な織物であったことでしょう。

ここにはそうした豊かさの影はありません。こちら側へ渡った際に、そうしたものはあちらの岸に置いて来ました。ここでは夢を見ることは許されません。生活は終わったのです。ここでは多くの隣人がいますが、我々の間の紐帯はことばではなく、沈黙であり、理想ではなく、現実であり、緑なす草原ではなく、乾いた砂の海なのです。わたしたちは共に追い駆ける者ではなく、たまたま手の触れ合う位置に流れついただけの物です。隣にいるものが誰かなど、それこそ誰も気にしません。誰であるかなど、どうでもよいことです。傷付いた野獣が巣穴に引きこもるように、じっとしているわけですが、それで病が癒えるかどうか、どうして判断がつきましょう。恢復した獣はふたたび森の中を駆け巡るのでしょう。それはしかし今は踏み込むべきではないストーリーです。そうした時が来るのかどうか、わたしにはまだわかりません。

さて話を元に戻して言えば、わたしはここに祈るために来たのではありません。願いをかなえてほしいのではありません。恵みを求めているのではありません。わたしは、こういう表現になるのを許してほしいのですが、わたし自身に成るべくここにいるのです。わたしはわたしであったわけですが、そのわたしに帰るべく、歩みを止めたのです。ここにしか誠実の徳の淵源はないと思います。いや今のままではおそらく、こうした表現の全体が、一種の醜悪さを体現するだけかもしれません。わたしはわたし自身になることはできないと言いつつ、その可能性を曖昧に担保できると思って、なんとなく済ませているのですから。偽善者と言われるのにも、一理あるように思われます。呪術的な言葉を使って慰めを得るだけの、魔法使いなのですから。わたしが警戒すべきはたしかにこうした魔法であったのではないでしょうか。実際驚くべき効果なのですが、ただ万能ではない由縁は、その効果は長続きしないということと、効き目が強すぎると弊害が生じるということなので、そういう意味では魔法というより麻薬とでも称すべきかもしれません。

2026.02.11-14

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