わたしはすでに何らかのものとしてある、ということが、状況を主に悲惨にするのでしょうか。それとも、その正反対で、そのことがすでに何らかの約束を、そしてその約束が果たされるという可能性を、担保しているのでしょうか。この状況からいかなる尊厳をわたしはわたしに見出し得るでしょうか。わたし自体の存在にわたしは関与した覚えがありません。わたしは定められたものとしてあるので、定めたのはわたし自身ではありません。この手もこの舌も、わたしは与えられたのであって、気が付けばそれがわたしであったのです。
わたしは種々(くさぐさ)を望み、その獲得に向けて計画し、動き、それが一個の生活となり、ほとんどわたしの全体となります。気が付くのはいつもその後です。わたしはわたしが○○であったことを知るのみであって、夢中に動くわたしを眺めるわたしはいないのです。しかしどうしてわたしがこれでなければならないのか。どうしてわたしのかたちはこれでなければならないのか。どうしてわたしが欲しいのはこの飴玉でありあれではないのか。わたしには理解することができません。たとえ理解することができたとしても、理解するのはわたしであって、すでにあるところのわたしが理解するのですから、その理解はわたしの一部として、つまりすでにあるものの延長に過ぎません。この運動の中のどこを見て、わたしは自分に何らかの尊厳を見つけられるのでしょうか。
わたしにできるのは、わたしがわたしであると認めること、追認することくらいでしょう。その確認に何の価値がありましょう。それで生活が楽になったからといって、それはそれだけのことであって、他にもたくさんある生活の工夫のひとつに過ぎません。実践的な徳という文字列のいやらしさといったら。いや失礼、生活は生活でよいのですし、わたしのほぼすべては生活なのですから、これは忌々しい自虐に過ぎないのかもしれません。なんなら、「ほぼすべて」と言い、「すべて」と言い切らないところこそが、混乱と乱雑を示しているのかもしれません。
もしわたしが無邪気にそう思っているのだとしたら、それは大きな信仰であって、誰もが違和感を抱く夏の梅であって、それでも真夏に梅の木が花をつけるのであれば、それはある意味で仕方のないことであって、今はそれでよいのかもしれません。もちろんやがて時は、夏の梅が問題となる時は、来るのかもしれません、来ないのかもしれません。時は来るのであって、それを決めるのは私の意思ではありません。夏の梅が咲くのであれば、それは季節の問題であって、私の問題ではないのです。
もっとも私は花を見、香りを楽しむことにはなるのであり、梅と無関係ではいられません。梅が咲くということは、私が咲くということです。梅が咲いたのに私が咲かないということはないということです。逆に言えば、私がもし咲かないのであれば、梅もまた咲かないのです。「なぜ花は咲くのか」という問いの射程は、この間の事情まで伸びるが故に、そうした問いの響きは何か人の耳を引き付けるものになるのでしょう。
わたしが花を見るのではなく、花が咲くのです。あるいは、花が花が咲くのを見るのです。もっともそれはそうなのですが、それだけではないというところに、何かしらわたしたちが関心すべきものが置いてあるわけで、わたしとしてはそれを横目にしつつ、日常の生活に取り紛れて過ごす、あるいは過ごすと思っている、わけです。
2026.01.17

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