手紙 2

これが手紙であることが、つまり手紙という形式が、自然と課す律法が少なくともわたしには今ひとつ思い浮かんでいます。それは言ってみれば誠実さです。書き手は第一に聴き手に対して誠実な関係を持たねばならないでしょう。そうでなければ真正の交通は結ばれ得ません。書き手はですから、恣意的に曲解を交えたり嘘をついたり誇張したり矮小化したりしてはなりません。何らかの意図をもって相手を説得するための手段としての言葉では、これはないからです。少なくとも意識的に努めるべきでしょう。現にあるがままの吐露であることを心掛けるべきでしょう。真正のコミュニケーションが生まれるためには、まずはお互いに率直さや相手を思いやる気持ちが前提されるのであり、相手を何らかの目的を達成するために利用すべき道具とみなしては、望ましいかたちの関係は生じないでしょう。書き手は相手を自らと同等の人間と見なさなくてはなりません。

わたしは読み手に対して語りかけるとき、慎重であるべきでしょう。もしわたしが何らかの意図をもって話しかけるなら、その語りはおそらく的外れ、ha-martia、罪深いものとなるでしょう。それはもはや手紙とは呼び得ません。手紙の体裁を有した、手紙に似た何かでしょう。これは銘記しておくべきことです。事柄の必然より何より、書き手と読み手との関係が第一に置かれるべきなのです。ありのままが書かれるべきです。何を知り、何を知らないか、どこまで歩き、今どこにいるか、評価を抜きにして、語られねばなりません。それは書き手に恥辱をもたらすかもしれません。しかし嘲笑を恐れて粉飾に走るのだとしたら、それは誠実な態度とは呼べません。

おそらく二者の間には、なんらかの信頼が前提にないと難しいのかもしれません。当たり前のことなのかもしれませんが、自らの現状をさらけ出すこと、これが真正な関係づくりの第一歩のように見えます。このような思いなしが正解かどうか、それはわかりませんが、今はいったんわたしもそのように努めましょう。ある意味でそうするとこれは弁証、告白に近いのかもしれません。さあ見てください。わたしの言葉ではなく、語り手の顔に注意してください。言葉には意図しない嘘が混じるかもしれませんから。言葉自体よりはまずその口を、顔を、表情を見てください。それが少なくとも多くのことを物語るでしょう。義憤に満ちた弁論がにやけた口元から発せられるということは、めずらしくもないのですから。

2025.07.19(つづき)

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