あやしき心地がいたします。こうして机に向かっていますと。
私にはあらかじめの用意はございません。今ここには、記したいことも、記さねばならないなにものもないのです。さらに言えば、この言の葉の向かうべき先に、はっきりした誰かがいるわけでもなく、いわばこの言葉たちは、的に辿り着く前に空中分解するような矢の一枝です。私はそれでも書こうとし、生活の合間に、井戸の底から稀に顔を上げて見る青天のような、そんな時の隙間に、そうですね、うつむいたままの顔を少し上げて、視界の端に映るものを、あるいはそれは錯覚なのかもしれませんが、少しの間だけでも追うことをやめられません。
すでにおわかりかもしれませんが、この書き物にはおそらく実際にはほとんど価値はありません。少なくとも、まだ、ありません。もっとも私は今この段階では、あらゆる価値をむしろ避けなくてはならないでしょう。やがては価値に帰って来る道程なのかもしれませんが、それは今ではないのです。それはかなり確かなことです。確かなことと言えばそう、この文は、どなたかへ向けて書かれています。だからこそ、これは日記ではなく、手紙なのです。
この言葉の先に、受け取る誰かがいるのかいないのか、それは私にはわかりませんが、手紙という形式がこの言葉たちの規定です。独り言ではありません。私はそう呼びたくありません。誰かにあてた言葉なのです。ですから私がこう言ってもさほど不遜には当たらないでしょう。聞いてください。私は今、あなたに向けて、書いているのですから。私はあなたを自らの同胞とみなします。これはあなたにとっては迷惑でしょうか。であればどうぞお許しを。私は筆を控えるつもりはありませんし、あなたを私の親愛なる友と思うこともやめはしません。
あなたは受け取らないことができますし、拒否することができますし、あるいは私の口を閉じることもできるかもしれません。それはそうですが、私はただ、あなたが私の言葉を聞いてくださることを願いますし、そのように心を尽くしましょう。もし我々が友人であり得るならば、私たちを結び付けるのは、鎖ではなく、共感に基礎を置いた、ゆるやかな連帯です。
おそらくこの劈頭において相応しいのは、力のこもった握手ではなく、やさしい言葉がけではなく、嘆願でもなく、せめて前途の無事を乞うだけの、祈りでしょう。その祈りは実にこの際適切なのです。なぜならそうした言葉は我々に、かの古人の箴言を思い起こさせてくれるでしょうから。 ~我々は人間に過ぎない~ gnothi seauton、これは私たちの出発の地に刻んでおくべき言葉として、最もふさわしいものの一つには違いありません。
2025.07.19

コメント