私はこの手紙の中で、おそらく人間を見出したいのだと思います。昼間に灯火をかざして探し歩いた古き人々の様に、私も今この弁論の広場の中を徘徊しているのかもしれません。そうであればきっと、私の書く文章は昔も今も探索言語というべきなのでしょう。かの人々は見つけたのでしょうか。探したからには期待があったのではないでしょうか。長き、あるいは短き探求の末に、希望は叶えられたのでしょうか。それは知ったところではありませんが、私も問いましょう。「人間はどこにいるのか」と。
この探索行には不可解な点があります。二つの点が同時にあるのです。ひとつは、人間への期待。もうひとつは、人間とは何かが不明であること。この一見、併存不可能な点が共存しているのが、この探索の特徴です。私は「期待」という言葉を用いましたが、「熱望」と言うべきかもしれません。この探検はやめるわけにはいかないという切迫性を持っています。他の何よりも重大と言いたいくらいです。
であれば私は強くそれを求めるわけですが、ただ肝心のそれはまったくのところ不分明なかたまりであって、それが何なのか、実はほとんどわかっていません。だから、何かを目指す道のりにはなり得ず、ついにはあてどなき徘徊と成るのが自然な成り行きです。何かを求め、しかもその何かが何なのかがわからない。したがって、意味はわからないままに、同じ場所をぐるぐる回るという奇妙な行動が生じるわけです。わからないけれど、やめられはしません。探し物をしている人に「あなたは何を探しているのか」と尋ねたら、「わかりません」という答えが返る。そんな不思議なことが現に起きています。棍棒で頭を殴ってやれば倒れて探求はやむでしょう。そして彼が再び起き上がったとき、体が動かなければ終わるでしょうし、動くのであれば再び始まるでしょう。私は多分、今の所、体が動くので、手燭をかかげるだけのことです。
出発点はどこなのでしょうか。「人間を」というよりは「原点を」という方が、なんとなくしっくり来るようです。原点とはここではつまり、「人間が人間である所以のところ」という程度の意味なのですが、それを探すというのは、つまりは探索行為ではあるのですが、しかしそれは何らかの出発ではありません。なぜなら出発とは「離れる」ということであり、「離れて別の所から見る」ということですから、出発はすでに致命的なのです。むしろ留まることが肝心とされるのであって、言ってみれば我々に課せられているのは、「留まりつつ出発する」ということなのです。あるいは、「留まりつつ、出立せず、しかも家を出る」という行為なのです。
冒険は始まりません。私たちが目指すのは「どこか」ではないのです。私たちは何かに成りたいわけではなく、私たちが何であるのか、そこに帰りたいだけ。小声でそんな風に言うべきでしょう。時の狭間で、もしもそれが歌になり、歌にしかならないなら、きっとその声が響いて、幕が閉じればやむでしょう。その行為に意味があるのかないのか、それは梢にとまって鳴く小鳥に「君はどうしてさえずるのか」と問うようなものでしょう。どのような解釈を得るのもご随意に、といったところです。
何にせよ、私はすると、声が聞きたいのでしょうか。人間の奏でる音楽が聴きたいのでしょうか。結局、私は自分が何を欲しているかすら、不明なありさまです。探求は始まりません。けれど私はある。口を開けてはむなしく閉じる。いつもその繰り返し。
この状況が言ってみれば原点なのだとしたら、たしかにそこは「出発点」というものではなく――というのも、そこに立脚はできないのですから――不安定で、不定形な、形容しがたい、居心地の悪い場所ということになりましょう。安心の反対です。
2025.08.16

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