手紙 6

いつもとりとめのない話になってしまうのを、とても心苦しく思いますのに、机に向かえばそのたびに記されるのは、やはり箸にも棒にも掛からないような文言なので、おそらくは、こうした言辞になってしまうことにも何か事由があるのだろうか、などと探ってみたくなります。

私が思いますに、ここに記される文章は何らかの成果物ではなく、何か意図を持って特定の効果を発揮するべく期待された言葉ではなく、したがって事実上の価値はなく、かといって遊びのように自由に流れるものでもないので、楽しくなく、結局は賢にも愚にもつかない駄文に分類されるものが出来上がるのです。もし、こうした文章の種類が偶然でないのだとしたら、その成立の事情を見てみれば――それで価値が生じるということではなくて――しかし何らかの納得は得られるのではないかとも思われ、けれど、そうした納得に安住するようなことになっては、何か本末転倒のような、そんなどうしようもない感想を転がすばかりなのですが。

今ひとつ脳裏に浮かびますのは、「敬虔と不敬虔の間」ということです。成果をあげられない人とあげる人の差。何も成し遂げられない者は敬虔であるのか。何かを成し遂げた者は即ち不敬虔であるのか。もちろん、ことはさほどに単純ではないでしょうが、生活の場面において顔をのぞかせる感情――怒りと罪――これらはたしかに人間の生を織りなす一つの部分なのではありましょう。

いかにも、成果を出す人は幸いなるかな、と申すべきでしょう。異論の余地はないと思います。何らかの価値を生み出す行為は、言ってみれば「よい」こととみなされるでしょうから、そうした仕事は人間などの生活の質を向上させます。悪いとは思えないでしょう。ですがその陰で、価値を生み出せない存在者もあります。枚挙に暇はありませんが、たとえばこの書き物もその類であり。企業においても、確固としたマインドセットを有して大きな成果を出す人と、出せない人とがいるのが常です。ここで、私は前者は不敬であり、後者は敬虔の可能性があると言いたいのでしょうか。言いたいのだと思いますが、その主張がはたしてどこまで正当かは別のお話で、実際ここを端緒として、糸を少しく辿るのも無意味なことではないように思われます。

怒りというのは、これは純烈な感情です。燃やし尽くす炎です。憤怒、内側でくすぶる烈火であります。怒りは法に関します。怒りは本来は自らへ向かうものです。本来というのはその源泉という意味です。怒りは罪の意識と同時なのです。生活においては、怒りはまず他人の行為に対するものとして発生しますが、それは広い意味では自己への感情に起因しますし、ここでは掘り下げませんが、たぶん何らかの投影なのでしょう。法罰。怒りは正義が破られたことに対する感情であり、「義憤」という言葉が近いと思います。ここで言う正義とはそして、人間の社会内のことではまったくなくて、それを超えたところとの関係にあります。私は「神」という概念はまだ使いたくありません。神はまだ我々には見出されていないからです。けれど、こうした物語においては、既存の言葉と文法で語る以上、言葉遣いについてはある程度許容する他ないと思います。

罪とは、自分が正しいことをしていないという自覚に起因する感情です。天に対して首を垂れざるを得ない強制力を持つ情念です。これはあるいは怒りよりも強烈かもしれません。実際、そこで人の口は閉じ、歩みは止まり、崩れるのですから、あらがいようのない力です。

話を戻しましょう。何が不敬なのでしょうか。本来すべきことをせずに、あるいは忘れてその他の行為に没頭するときに、人は不敬と呼ばれるのでしょうか。本来すべきこととはなんでしょう。どうしてそのような大事を人は忘れ得るのでしょう。人は敬と不敬を選択できるのでしょうか。不敬な者は、自分が不敬であることに気が付くことが可能でしょうか。では敬虔な者は、どうして気が付くことへ開かれているのでしょう。またそれは「自分は敬虔である」という認識なのでしょうか。それとも、それはいつも「何々は不敬である」という認識なのでしょうか。そうであれば、敬虔な者はどこに存在し得るのでしょうか。程度の問題とでも言うのでしょうか。みんなある程度敬虔であり、ある程度は不敬なのでしょうか。

たしかに不敬とは、何かを忘れていることには違いありません。忘れていることに気が付いていない状態です。義務を果たしていない、という言い方もできるかもしれません。するべきことをしていない。そしてそこへ戻ろうともしない。そんな在り方が不敬と感じられるのでしょう。こうした意識の構造は、教育によって形成されたものでしょうか。時代の産物でしょうか。

私たちはここでこそ慎重さを発揮しなければなりませんね。しばしばはっきりと感じられるような、生活を規定するような、怒りも正義も敬虔も罪も、全部勘違いである可能性があると、まだそれすら明言できないくらいの暗がりに私は今立っているのですから。

ええ、ここは暗いです。はっきりとはものが見えません。我々には音楽がある、などという向きもありましょう。いかにも、表現というものは、ある意味、暗夜の航海における羅針盤なのでもあります。それは疑いありません。ただ、我々は表現から距離を取ることも時には必要であって、我々の仕事は何らかの表現をすることではないように思われるのです。優れた作品は灯火のように照らしてくれます。喜びであり慰めであり、おそらく人が地上で生きるためにはなくてはならないものです。しかしそれはそれとして、我々においてはその灯火に導かれつつも、そこから離れて、あえて暗がりに留まり、光を求める忍耐がきっと要るのではないかと、そんな風にも思われます。

2025.08.09

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