手紙 34

自由という言い回しはさておき、たしかに私たちには選択肢があるように思えます。少なくともある程度の範囲内に限れば、どれを選びどれを選ばないかは、決めることができるように感じられます。

わたしは歴史を理解するとき、端的に言えば、自分の敷衍(ふえん)としてしか理解できません。理解の外に何があるのかわたしは知らないのです。あるかないかはわたしにはわかりません。わたしは自分を引き延ばして推量します。であればわたしの選択はそのまま歴史の選択であり、全体の選択です。たとえどんなに荒唐無稽に聞こえようと、わたしはそのようにしか理解できません。もしわたしが自らの生において、そのほとんどを無為に、というのは本来すべきではない行為にという意味ですが、費やすのであれば、つまりどうしてもしなくてはならない作業、食べたり飲んだり生活を維持するために労働したりして、一日のほとんどをそうした労務にあてるのであれば、それはそのまま全体にも当てはまるのであり、すなわち歴史と社会の99.9%はそうした類の労働行為で構成されているわけで、つまりはそれが人間というものの姿として理解されざるを得ないということです。こうした理解からは徒労感が生じます。本来すべきことに注力していないという反省が生じます。

生活が物質面で豊かになっても、生活の感覚は変わりません。目先の労働に従事するという行動は変わりません。毎日餌を探して地面をつつき回る小鳥を捕まえて、餌を用意した籠の中で飼うとしましょう。鳥はやはり餌を探し、見つけ、ついばむでしょう。もしも余暇ができれば羽を繕うでしょう。餌を探して動いた目は変わることなく動くでしょう。もっとも餌は目の前にあるので、探索はすぐに終わるでしょうが、その目は餌以外のなにかを求めて動くことが可能でしょうか。空想くらいはするかもしれません。しかし食事から離れて思惟を遊ばせるようになるかはわかりません。

わたしたちも同じで、羽をつくろうのであり、それはつまりそれだけの行為です。わたしたちの羽根とくちばしが全く別のものに変わるのであれば話は別ですが、そのときわたしたちはもう人ではないでしょう。わたしの指は、五本の指は、一本の右腕と、一本の左腕は、道具として見る時、様々な用途を持ち得るものですが、それらは目的不明の道具というよりは、私たち自身の一部なのでもあります。たぶん一定の範囲内では、再定義してゆくことはできます。壁に突き当たるまではその行為を続けて行くのがよいかもしれません。

このバベルの塔を積み上げた先に何が待つのか、何となく暗示されているのですが、人間のささやかな反抗は、涙なしには語られず、与示された結末の曇り空の下で、建築作業を続ける者たちと、籠の中で仕方なしに毛を繕う者たちと、地の上の塵がつむぐかなしい糸が立てる音楽を、誰が鑑賞しあるいは鑑賞しないのか。そんな空想を遊ばせつつ、どちらにしたところで、遂にはかなしいことに違いなく、しかしわたしたちにやめるという選択肢だけはないので、奏で続ける他なく、せいぜいまっすぐに歌うものを賞賛し、そうでないものよりも上等とするくらいしかできませんが、それも単なる程度の差に過ぎませんから。

なんにせよむなしく、いたずらで、行き着く所が無我の羽根繕いというのが、これが反抗の極点であるとは、悲惨という他ありません。もちろんこれはわたしの解釈なので、塗り替えられるべきものであると思います。ただ、労働のかなしみというべき事態は、今や共同的に経験されているので、ここから起こる叛抗も、共同的である他なく、敵のいない闘争から生じる混沌の渦中で、共に流され、たまたま隣にいた者同士で手を繋ぎ合い、足掻き合うのが、現在あるいは将来わたしたちを繋ぐ紐帯なのでしょうから、実行するとは現実的に言うと共に溺れることでもあります。もしも濁流に呑み込まれていないなら、まずは築かれた堤防を壊すことから始めねばならないのかもしれません。

2026.02.28

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