手紙 33

程度の差に過ぎないのではないでしょうか。赤子とわたしと。前者が手を振り上げたり泣き喚いたりするとき、わたしはペンを持ち文字を連ねます。どちらも何かしらの衝動に突かれながら、自分が本当には何を欲しているか知りません。そしてわからないままに、そのままではいられないので、何事かをすることになりますが、一方が壁を叩き一方が言葉を重ねて、どちらがよりよく表現できているかを競うなら、こんなに興ざめな競技会もないでしょう。審判員の白けた顔が見えます。そうです、どうでもよいですね。どちらがより上手か、その差が有意味だと思えません。

観客にとっても結果はどうでもよいので、しかし他にすることもありませんので、席を立って移動することなく、無感覚な心で成り行きを目にし続けます。拍手もするでしょう、歓声も上がるでしょう、熱気も生まれるかもしれません。しかし心はあくせくしているか退屈しているかのどちらかでして、どちらにせよその底にあるのは無感動であり無感覚なので、涙を流したくても流れず、叫びたくても呼吸はゆるやかで、畢竟(ひっきょう)どちらでもいいのであれば、およそ何もかも、生も死も、今夜の食事も、明日の住居も、思い出も希望も、本当にはどうでもよいので、どうでもよくないものを探す旅路の果てに、どうでもよくないものに出会ったとき、そのときその人はたぶん、正気を離れるのであり、それは不可避ながらももっとも悲しい事態なのであり、残念な結末に思えるのです。

わたしがこのような片寄った言葉遣いをするのは、方向性がすでにあるからに他なりません。わたしはすでに一方に偏っています。すでにどうでもよくないものがあるというのが、わたしに与えられた現実であり、わたしはその中にいますので、そのような者が語るときには、中立的な思惟になるのではなく、一方に偏したものになりがちです。どうでもよくない世界の中にいるからこそ、「どうでもよい」と言うのでして、それはわたしの置かれた状況がそういう発言を誘うのです。だからその「どうでもよい」は元気よく発せられるのではなく力なく漏れ出るのでして、世界を塗り替える力強い宣言ではなく、どちらかといえば弱弱しいつぶやきです。テーゼに対するアンチテーゼに過ぎませんから、戦いの行方を丁寧に見守ることになります。

これはあるときは運動であり、あるときは認識であり、あるときはほとんど存在かもしれません。この中でわたしは刺激され、反応し、構築し、そしてそのうち「どうでもよい」とつぶやきます。わたしたちはまず遂行したいのです。それが見守るということの意味です。遂行しつつ越えなければなりません。越えるのは不可能と思われますが、実際に越えることをその遂行のなかで行うことになるのであれば、越えるということも実行のどこかに含まれているのでしょう。

そしてわたしとしては、これは特殊な個体のする試みではなくて、今や共同的な課題として、共有の問題として取り組むことができると思います。言語がまずその土台を提供してくれます。もっとも順番としては、言語がこのようであるから可能となるのではなくて、このようなものとして言語がかくあるようになったと言うべきでしょう。言語も遂行の一部です。わたしたちはわたしたちを知ろうとする。今やそのときなのです。実行だけが問題です。わたしたちはすることしかできないのですから。

2026.02.21

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