手紙 31

私はこのように思う。蝶は今日の蜜を追い、蟻は明日の糧を蓄え、里人は耕し、牧人は導く。それぞれにそれぞれの喜怒も哀楽もあり、深浅の別、広大の差がある。それはそれとして、書き手というものは、片寄ってはならず、身を流れに傾けてはならず、どこまでできるかわからなくても、つとめて冷静でいなければならない。そのせいで殺されることになったとしても、それは仕方がないことだ。

さて、わたしには時間がない。だから直接触れたいと願い、燃え盛る火焔に向かい手を伸ばす。肉の焦げる匂い。この身は灰になるのだろうか。蝋の翼で舞い上がったイカロスを冷笑する群衆がいる。わたしもその一員なのだろうか。いかにも彼は愚かであった。しかしその愚を見つめる人々が彼より上等かと言うと、それはどうにも分からない。

なんにせよ、観衆の少なからぬ者の足は、上空からの落下により、傷を受けているのだろう。彼らはイカロスに自分を重ねて、顔を歪める。生き残った彼らは地上で残りの生を歩かねばならない。びっこを引きながら、恨み事を重ねるわけにはいかない。各自の望みが叶えられないからといって、各自の地上的生が泥まみれだったからといって、文句を言うのは勝手であるが、各自の庭の事情は、本当に関係がない。

蟻は蟻のように生きるのであり、それ以外にどう生きることもできない。わたしもこの身の置かれた場所で与えられた事情で、振る舞うことしかできない。ここには幸せも不幸せもあるし、何より思想が、時代が、世界がある。

街を歩けば、気が狂いそうという発言をよく耳にするが、もしもわたしたちを包んでいる被膜を突き破ることができないのであれば、元々気が狂っているようなものだし、その可能性がないと明晰に知るときが、本当に気がふれるときになるだろう。人口のほとんどが何とか壊れずにやって行けるのは、判然と認識することができないからというだけの理由に過ぎない。鳩と人は本当によく似ている。都会の鳩が無表情に歩くとき、雑踏も同じように歩くのであり、粗暴な靴に追いたてられるとき、その力なき姿に、彼らは自分の姿を看取する。時は迫っている。時を止める魔法を使えない彼らは、口を開けて呆然と立ち尽くす。そして時が来たら、人も鳩も蟻も等しくのみこまれる。

これがいわば今このときの描写である。わたしたちの現在はそういうものなので、関係がないのだ。わたしの悲哀も希望も、私個人の境遇がどうであろうと、問題にはならない。わたしはいつも処刑台の上に立ち、ギロチンの刃を受け続けている。これはもちろん譬喩ではあるが、現実によく似ていると思う。私の目に映るのが、首から離れた顔に映る視界なのか、それともまだ繋がっている目が捉える景色なのか、どちらであるとも言えない。

人は何かを望み、人は何かを嫌うけれども、生と死という現実は、本来それらと関わりがない。それは人の物語の一部ではない。もし一部であるなら、関わりはあるのであるが、解釈された生と死は関係するとでも言って、お茶を濁しておこう。

結局、わたしもイカロスのように飛んでしまった。それで危ないと察知して、上昇を途中でやめ、のこのこと戻って来て、人々の列に加わったのである。きっとこの行動には効果があるのだと思う。繰り返されるこの種の行動は類型化できると思う。傷を受けたアナグマが巣にこもるようなものだろうか。ではもし怪我をしなかったら、その場合は緑の野を駆け続けるのだろうか。

思想に傷がつかなかったら、そのときは穴にこもる行動は起こらない。ひっくり返せば、穴の中で回復されるのは思想の殻であり、ほつれた服を修繕するような作業において、その布がどこから調達されたものかはともかく、その行為自体を見れば、それは自由人のする行為とは程遠い、つまらぬ日常作業なのではないだろうか。ほころびをつくろう作業。それだけなのだとしたら。

2026.02.07

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