わたしたちがどのようにあがいたとしても、それが一個の顔にしか、表情にしかならないのであれば、これはもうすがすがしいほどの救いようのない事態であって、わたしたちの現実がそれなのであれば、どのような顔をすべきかについて、わたしは興味を抱くことができないのであって、自分がどのような顔であるか、それは本当にどうでもよいことに思えます。
乾いた笑い声を上げながら、わたしはこの地で最後まで振る舞うのでしょうか。それは幼稚な態度ではないでしょうか。しかしあらゆることが顔にしかならないという中では、はたしてどんな態度が賢明と呼び得るのか、わたしには今は想像がつきません。どうしてこのようなことになっているのでしょうか。わたしは誰に尋ねればよいのでしょうか。絶望という言葉はどこか甘い響きを伴いますが、わたしは今は絶望しているのではなく、全然そうではなく、単に磔刑(たっけい)に処されているだけです。本当にそれだけのことです。血の流れるのを眺めているだけです。
悲しみも喜びも、どうでもよいのであって、わたしにとってのすべてはこの現実であり、この現実とは、つまりこれであって、何とでも好きなように呼べばよいと思いますが、わたしにはどうにもならないものです。わたしにはわたしがどこにいるかわからないのです。かつて広場で人間を探して歩いた者がおりましたが、今や人々は自分の部屋に閉じこもって、自分の影を求めて文を綴るのでしょう。混乱、騒乱、結構なお話です。濁った水が時間と共に澄んだとき、その時そこに残されるのは、何か恐るべきものでしょう。その恐るべきものと手をつないで、その手はどちらからともなく当たり前のように繋がれたものですが、静謐(せいひつ)のあまりの衝撃にほとんど気を失ったままの精神で、目の前に来る生活のことに身を投じます。
ここでは目が良く見えるものほどよくつまづくのでして、最も優秀なものほど檻に入れられるのですが、しかしこうして見れば、動物園の檻に入れられている生き物にとっては、観衆の方が閉じ込められていると見えるのに似て、いったい檻の中にいるのはどちらなのか、わかったものではありません。誰かであることを拒否し続けた先に待つのは何でしょう。その拒否をするのも誰か以外ではないのですから、これこそ戦いにもならぬ戦いなので、勝利も敗北もないので、はじめることもできないので、ほとんどの存在物はなんらかの顔つきをして動くのですが、そこにはたしかに何らかの意味での忘却、あるいは閑却が、その表情の影に現れているように見えてなりません。
戦いというのは戦うことのできる相手との間でしか成り立たないもので、戦いが成立しない相手とは戦うことはできません。ああそれでも、彼らは、何という目つきでしょう。あきらめの悪さと申しましょうか、根性のいやらしさと申しましょうか。悟り切ることもできずに、力のこもった目で虚空をにらむその目の、なんと土にまみれたこと。もはやこれは甘えなのではないでしょうか。頑張ればやがては報われると、そう信じて疑わない幼子のようで、年端の行かぬ者だけに一時の間許された眼差しなのではないでしょうか。そうした目を年老いた者がするのは、もはや間違いとさえ言えるのではないでしょうか。
たしかに人間を探して歩いた人たちは、今も市場を歩いて、同じように灯火を掲げています。まだ見つかっていないのです。それがわたしたちの現在です。そしてそれはわたしたちの未来なのかもしれませんが、「かもしれません」としか今記せないのは、はっきりと知っていないからであって、実のところは、探している当の本人が一番、人間について教えてもらいたいと願っているのですし、自分が探しているものが何なのか知らないのです。
手に提げた明かりは探し物をではなく、おぼつかない自分の足元を照らすための、おまじないのようなものでしょう。あるいは、その火は他人を照らすものではなくて、自らを照らし出し、後世までを含めた見世物にするための、芝居道具なのかもしれません。成立した問いを追いかけるのと、問いの錯綜する昼間において、立ち戻って薄明に留まろうとするのは、区別すべき二つの場面です。二つの内どちらがより人間らしいなどと言うつもりはありません。もっともらしく言えば、二つ合わせて人間なのでしょう。
2026.01.24

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