手紙 26

どこから始めるかという疑念に対しては、おそらく実践的な答えを返すことになるでしょう。どこが正しい開始地点かはわからなくても、今すでに始められているという点について、どんな態度を取るか、私たちは決めなければならないというより、すでに何らかの仕方を取っているという現実を端緒として、そこから辿る道を模索するより仕方ないように思います。だからこのような言葉遣いをするのもひとつの現実としてある程度大切にしたいと思うのですが、つまり、私たちはまず祭壇の前に立って向き合わねばならないのですが、おそらくその始めの位置に立つことがすでに至難であるわけです。

わたしはこう言いたいのでしょうか。私の手は掴むために、あるいはなでるためにあるのであって、無から有を作るためにあるわけではない。というのは、もし私が作りたいと欲したとき、私には手しかないとしたら、私は手を用いる他なく、その手というのはつまり動かすための手であって、掴んだりこねたりすることはできますが、何かを創造することはおそらく手に余るのであって、しかし私にそのとき手しかないのであれば、私は手を不器用にあるいは器用に動かすこと以外にはできず、何かをしたいという意図のもと、手の指を動かして、そうして竟(つい)にその意図は達成されないということにならざるを得ず。

他の例をあげれば、私は食べたいとか眠りたいとか欲することができても、〇〇したいと欲することはできないのであって、〇〇の中身をわたしは知らないのですが、というのはそれを想像することすら私にはできないのですが、ここに何らかの形があり、所与があるとしたら、それは何らかのものなのであって、なにものでもないわけではなく、したがって、ここに悲しみの萌芽もおそらくその反対のものも含めてあるのですが、私は私としてあるより他がないので、私は何をしようとも私としてする以外にできないという、かなしい物語の極みに行きつくわけです。私の肉体はおそらく槍を握りしめることくらいがせいぜいなのでして、たぶんペンを握ることすらとても稀で、とても私らしくないことなのでしょう。私は飴玉で満足するのですし、せざるを得ないのです。

この考を突き詰めますと、私が昔から表現という言葉で呼びなして来たことに帰するのですが、つまり、表現というのは表現になってしまうという意味であり、表現でしかないということで、それがつまり祭壇ということで、祭壇というのは言い換えれば、その前ですべてが表現として捉えられる場、のことであり、祭壇の主は解釈する主体なのでもあります。その前に立つことが始まりと私は申しましたが、別の言い方をすれば、祭壇の前ではすべては音楽になるのであって、なってしまうのであって、どのようなものであろうとも、一個の音曲として聞かれることになり、解釈されることになります。

恐ろしいまでに単純な思想ですね。私の手の握り開きは、演奏になってしまいます。音楽になってしまいます。それだけのことです。美しい演奏があり、汚い演奏があるでしょう。どちらにせよ、何らかの音を出す他ないのですし、音は刹那に消えてゆきます。それだけのお話です。このような夢は道元だって見たと主張するのは錯誤でしょうか。ここには凄絶さがあります。有無を言わさぬ迫力があります。自らの身を種として炎は上がり、美しいか美しくないか、どちらかに燃えて、種がなくなったところで火が消えます。

ここで何が問題かと言うと、私たちの演奏手段というか音を出す手段は限られているということでして、いくつかの音階、いくつかの協和音、いくつかの楽器、こうした貧しい手段をもって奏でることしかできないということです。天上の音楽を奏でることはできないのでして、少なくとも私たちの想像することができるような音楽は、それだけで地上的なので、それにそもそも音楽という表象が、私たちの限界を示しているのだと思います。音楽というのは譬えに過ぎないので、音楽が一番近いと思うからに過ぎません。

このように言論によって近づこうとするのは、つまりは槍を握りしめて、雲の上にいる透明な形相を狩ろうとするような、地の人のとるあわれな行動のひとつなのでしょう。

2025.12.30

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