手紙 25

しかし自由というのも、死と同じように、思想に過ぎないと見なすべきなのだとしたら。ああそのときは、わたしはどんな顔をして、前を向いたらよいのでしょう。これは何という名の滑稽劇なのでしょう。もしこれが、一体の操り人形が糸の引かれるままに動くだけの舞台なのだとしたら。人形は自分の手足に結びつけられた糸を見つめます。はじめは引きちぎりたいと思い、手足を無思慮にばたつかせますが、その功がないと見て、静かに反抗の準備を調えます。そうして、どうなるのでしょう。叛乱は成功するでしょうか、失敗するでしょうか。どちらにしても畢竟(ひっきょう)、一種の喜劇を出られないのでしょうか。

たしかにわたしには余裕がありません。わたしにとって大事なのは今ここであって、やがてもたらされる救済ではありません。わたしがもし今ここで幸せでないのだとしたら、わたしの存在が幸せでないということであり、それをわたしはそのままに引き受けなければならないのだと思います。不幸せな人形は、今ここでこのままに粛々と事業を進めます。その事業はたぶんわたしの幸不幸と関係がないのです。この事業でわたしが求めるのは何でしょう。目をつぶりながら弓を引いて、しかも的を射抜かねばなりません。その結果わたしが得るのは満足ではないのでしょう。何らかの認識でもないのでしよう。

それは結果ではなくて、どちらかと言えば行為そのものであり、引き受けた人形の精一杯の絶望に近いのではないでしょうか。もっともそれが絶望なのか幸福なのか、どちらであるかはあまり大事ではないので、わたしはわたしであるというより、わたしはわたしであるに過ぎないということを、そのまま実践することなのでしょう。人形は反抗したいわけではなくて、穏やかな心で、柔らかに引き金を引くのです。もし本当の意味で反抗ができるのなら、それはもはや人形ではないでしょうから。人形は人形のことばを語ることしかできないのですから。

その人形の口からはかつて、「わたしは今この瞬間に絶対に幸せでなければならない」という言葉がほとばしり出ましたが、それが一種の傲慢ではないとすれば、それは一種の呪詛であり、宣告であり、涙と共に零れ落ちなければならない閃光であり、別の言い方をするなら、「わたしは飴玉を転がしておいしいと言うことしかできない」という発表です。

ここにおいて、いったい何を傲慢というのでしょうか。ヒヨドリの声に驕慢の響きを聞かねばならないのでしょうか。もしもわたしが絶対に幸せであってそれ以外であり得ないのだとしたら、この幸せであることこそが罪なのではないでしょうか。ではわたしのすべきは糾弾でしょうか。自らの罪を暴き出すことがわたしのすべきことなのでしょうか。その自己反省自体のなかに、しかしわたしは隠せない驕りの色を発見しなければならないのではないでしょうか。

わたしはどこにいるのでしょう。さきほどまで梅の枝に鳴いていたヒヨドリはどこへいったのでしょう。幸せにならなければいけないような存在のどこに尊厳があるというのでしょう。わたしは人間でありますが、人間であらねばならないのでしょうか。それとも人間でない可能性があるのでしょうか。

2025.12.20

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