本当に、鳥はなぜ鳴くのでしょう。わたしたちの発するこの問いの玄妙さといったら! その言葉の響きが織り成す色合いの複雑さは、ひとつの色で染められた糸のなかに限りない色味が秘められているような、深みと広がりが単純の内にあるような、つまり妙なる感じであって、答えを投げ出してみても静かに滑り去って、無傷の問いだけがそこに不気味に残り続けるような、まるで人の身ではどうやっても乗り越えられそうにない絶壁を前に立ちすくむような、しかし迂回路もまたないので、そこから退くこともできかねるような、そういう複雑さなので、掴んだと思ってこぶしを開けて見れば、きれいな手のひらの皺(しわ)が見えるだけで、同じことが繰り返されるので、この種の色が、私たちの生活の基調ともなり、したがって私たちの日常は、笑うときも静かで、怒るときもゆるやかで、つらいときも微笑んで、悲しくても打ちのめされない、これは中途半端というわけではないのですが、感情に現れる様子を見ればそこには色の純粋さと同時にそれだけではない何かが必ず付きまとうことになるので、しかもその付きまとう様子が表立って見えることはなくて、見えるものについて言えば色以外ではないのであって、それ以外に何かが見えるというのは想像に過ぎないので、ただ目には色としか映らなくても、その背後あるいは側面あるいは表面、どこでもよいのですが、どこかそこではないところに、しかもまさにそのところに、秘められて何かがあるように感じられるのが、これが我々の日常の認識なので、人によってはこれをかなしみと見るのですし、あわれと見るのですし、また底知れない愉虐とも見るのです。
しかし私たちの生活の基底に一種のあきらめの情趣が流れるのは仕方のないことで、これは一種の罪の意識と結びついており、つまり私たちは今現在において罪を犯しつつあるという、一種の感覚が故であり、この行為に気が付いていながら、それをやめることができないで、現に今もそれをし続けているという、こうした現実解釈というよりは現実感覚の所為(せい)で、自らの無力さと、しかしそれを問題として捉えている意識とに挟まれて、ペンを握ったとしても書くことがあるわけでもなく、というのは人の言葉はせいぜいのところ、ここに関してはもし向き合うとしたら、罵詈雑言のような、呪詛のような、あるいは祝辞のような、愚にもつかない子供の落書きのような、一読すれば捨てられるような、そんな作品が出来上がるだけでしょうから、そうした文字の羅列よりは、よほどペンを握る手にこもる筋肉の力の方が真実をよく語るように思えますが、そこを語ることばがないというより、ことばでそこを語らざるを得ないのであれば、そのことばは多分とても奇妙なものになり、すなわちそのことばの奇妙さが、生の現実をよく表すという風になるわけです。
留まることができないで、出発せざるを得ないのが、人生に哀感を添える構造になっているのですが、これも畢竟(ひっきょう)ひとつの理解に過ぎないので、どこまでさかのぼっても果てに辿りつくことができないので(いやできるという方はぜひお試しになってください。そして冒険の結果を、もし生きて帰って来ることができたらの話ですが、教えてくださればどんなに嬉しいでしょう)、竟(つい)にはじめに浮かべたような問いに戻ることになります。
鳥はなぜ鳴くのか。答えは如何様(いかよう)にも出せましょう。ここではただ、問いが生じるという点に目を向けましょう。たしかに私たちは問いを発したのです。発せざるを得なかったのです。それが、その事実が、私たちの現実を、ある意味どんな回答よりもよく、物語るのではないでしょうか。ええ、「私たちはある」と叫びたいくらいに、です。もっとも私たちの仕方は、口を大きく開けて叫ぶのではなく、小さくそっとつぶやくのですし、そのつぶやきも日常のごたごたに取り紛れ流れ去るに任せるのですが。
2025.11.29

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