手紙 21

わたしが正気でいられる時間というのはどれくらいでしょうか。一日の内全部でしょうか。それとも一分でしょうか二分でしょうか。二時間でしょうか三時間でしょうか。正気とそれ以外に分けるとしたら、それらの定義はどんなものになりますでしょうか。随分手前勝手な分別ではないでしょうか。わたしがそう感じるときが正気で、そう感じないときが狂気とでもいうのでしょうか。私自身が判定者なのですか。

もしそうだとしたら、私の望む正気がどれくらい本当に正気なのかをどうやって確かめればよいですか。正気でいたいというのは私の幼稚なわがままでないとどうして言えるでしょう。勝手なものです。それこそ私一個の妄想と言うべきではありませんか。自由、正気、ゆるし、人間。わたしの空想であり、わたしの願望に過ぎないのではありませんか。もしそうであれば、私の稚愚はわたしの経験と共に解消されるかもしれません。自由が問題にならなくなるときが来るとしても、わたしは驚かないでしょう。もしそれが自然なことなのだとしたら、成るようにしか成らないのですし、すべての前提がひっくり返るのだとしたら、どんなにか私自身せいせいするでしょう。

わたしが演じるのは、台本の決まった劇なのであって、その筋書き通りに進む他ないのだとしたら、わたしにできるのは、せいぜいよく演じることなのであって、定められた展開にない動作をして、作品自体を壊すことではないのです。道端に咲くコスモスが風に揺れて、人の目に美しいと映るのは、つまりはそんな舞台の上に立つ登場人物の一人として、きちんと筋道に沿った演技をする他ない状況から抜け出ることができないからに過ぎません。きれいなものは一瞬で過ぎ去ります。喧噪に押し流されるのは偶然ではありません。脳裏に残ったコスモスの色かたちを、市場で反芻するのがわたしたちの日常の一こまです。

さてわたしはここで思います。ここから何が始まるのか、あるいは、そもそも何かが始まるのかと。ここは東の国なのであって、陽光きらめくギリシアではありません。私たちの感性は、隠れたものを隠れたままにしておくのをよしとするのであって、テーブルの下のものを暴き出すのをあまりに粗暴と感じ、どちらかと言えば避けようとしますが、それはつまり私たちの感じるものが、やはりはっきりとした輪郭をある意味で持つのであって、それを前にして、語る口を持たないから、あるいは、語ろうとする口からことばが出て来ないのを、私たちが経験するからです。強烈な感覚の方は破滅に向かって突き進むでしょうが、突き進まざるを得ないのでしょうが、ここの人たちは目を伏せて黙って、忍んで生きるのです。わたしはこのような態度をあわれと感じます。

これは一種のあきらめでもあります。かなしみでもあります。そしてこのような場所でコスモスは、かように美しく咲くのです。このような美のあらわれ自体が特徴的というよりは、このような美に対する観賞の仕方に風土的な特徴があるのかもしれません。ここでは美は追い求めるものではなく、横目でそっとうかがうものです。すぐに忘れ去られるものです。そして私たちは自分たちがそれを忘れることを知っているのです。その上に成り立つのがここでの喧噪なのであり、俗世のあれやこれやです。だからある程度それは静かなのであり、こうした共通感覚の上に、人々が演じる劇は、奇妙な色合いで、独特の真剣さで、つまりまじめな諧謔という風であり、すべてを一笑に付すひよどりの大喝です。

この地の人々は鳥の鳴き声を聞いています。彼らの耳には聞こえています。それでも彼らが大騒ぎすることはありませんで、耳にしながら彼らは朝食のお茶の準備を始めるのです。これは悲劇でしょうか。いいえ、生活ですし、生活に過ぎません。この中で、この中に暮らしながら、私たちは思いを寄せ、息をつくのです。どうして息をつくのかというと、立脚地が見当たらないからです。生活は生活に過ぎないのであり、何らかの基礎や土台にはなりませんし、ここが私たちの出発点と宣言できるような、確固としたものではありません。

2025.11.23

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