時が来ました。わたしはペンを取ります。時が来たから、わたしは目を開きます。時が来たというだけで、わたしは立ち上がり、息を吸いこみます。他にどうすることができましょう。時が来たから、わたしは生きるのです。準備ができていたとしても、いなかったとしても関係がなく、その時が来たから、わたしは「はい」と答えます。わたしは夢を見ていたのかもしれません。時が来ることを予感していなかったと言えば嘘になりましょう。けれどわたしが感じていた時は、実際に来る時とは異なるもので、わたしが時を知っていると思うのは、思い上がりに過ぎません。わたしは時が来たから応答するのであって、来なかったらしません。それはわたしの都合によるのではなく、時の勝手と言えましょう。
ですからたとえわたしが十全な態勢を構築して臨んだとしても、それはむしろ全部が勘違いというもので、的外れというもので、もしもわたしが事前の予測によって波を上手に乗り越えられたと自負するのだとしたら、それこそが最も重い罪と言わねばならないでしょう。その罪は罰せられないほどに重いと言うべきです。傲慢の極まった先はおそらく無応答に帰するのであり、それこそが地上の人間の最も恐怖すべき事態でありましょう。わたしはここで準備の無意味を説くのではありません。最大限の備えをした上で、その場に臨んだ際には手にした武器を捨て、裸で相対することになる、と述べているだけです。何も助けにはなりません。わたしは身一つで、そこに立たねばなりません。もしも身という何かが残るのであれば、それも捨てられねばなりません。時が来たとはそういうことです。その前に人は絶対に無力であり、発言も許されず、目を伏せてうつむく他ありません。
時とはいつか来るものでも、かつて来たものでもありません。親愛なる同胞たち、あなたがたに向かってはこう言いましょう。時は来ているものです。間髪を容れる余地はありません。来ているのであれば、わたしは向かい合わねばなりませんし、それは誰もがそうでしょう。たしかにわたしたちは忘れることができます。驚くべきことですが、目をそらすことはできるのです。かんたんなことです。関心の波はわたしたちの周囲を取り囲み、手を伸ばしさえすれば、すぐに届くところにあります。飴玉を欲して追いかける童子の姿に我々は、自身の鏡像を見るのです。わたしは時が来ないなら、眠ったままかもしれません。時が来るのか来ないのか、わたしの知ったことではありません。来ないのであれば、わたしは眠り続けるでしょう。来るのであれば、わたしは目をこすり、寝起きの回らぬ舌で応えるでしょう。わたしが時をどうにかできると思うのは無知の最たるもので、自分は時の主人ではないと思うくらいが、せいぜい、わたしたちの知の最善の果実でありましょう。実際それはたいした果実ではありません。時を知るということが傲慢なのですから。それは老人にとっての杖に似ています。立って歩くのに欠かせませんが、その時が来たら、杖さえも手離さねばなりませんから、そのとき自分の足で立てないのであれば、倒れるしかないでしょう。
おそらくこうした事柄については、核心を避けるというか、光の中へ直進したいという性向を強いて抑え、迂回というか、周囲を回転しつつ、触れるか触れないかの位置に留まりつつ、様子を慎重に探るような方法が必要になるというか、そのような迂遠な仕方にならざるを得ないように思います。この種の探求の特徴といえるかもしれません。綱渡りに似て、一歩踏み外したら崖の下に落ちて、再び上がって来ることはできません。大勢の探求者が道を踏み外して死んでゆくのは、熱情のあまりに直に触れようとするのを止められないからという理由に尽きましょう。最も真摯な者ほど、最もはやく脱落します。蛾が灯火に飛び込むのを眺めるとき、そこにある種の哀感が漂うのは、その姿に自分が重なって映るからなのでしょう。つまり悲しいのは、他にどうすることもできないからです。自分がたまたま燃やされていないことを思うからです。運による、としか言い様がありません。
2025.11.08

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