手紙 16

人はどうして病を得るのか。季節の変わり目に体調を崩した者が、寝台に横たわって苦しみ、快方に向かったあとで、決まって発する問いです。病苦は自分ではどうにもできないもので、肝腎なのは、「どうにもできないものがある」という点です。自分の制御を超えたものがあるというわけで、これはある意味では出合いです。自分ならざるものとの遭遇です。いや正確に言えば、自分の思い通りにならないものとの邂逅です。

これは自分にとっては衝撃的な現実認識です。この望ましくない事態により、わたしは逆にわたしというものの輪郭を見るのです。わたしがこのような形であるのだということ、あったのだということを、見る機会となります。病という抵抗がもしなかったとしたら、わたしは自分がどのようなものであるか、想像する発端を掴むことすらできないでしょう。病気は敵なのでしょうか、それとも気付きを促す使者なのでしょうか。たしかに病気になってはじめてわかることがありますし、もし死がなかったとしたら気付くことができないものがあると思います。

人は増長するばかりで、傲慢は折られません。どこにも本気はなく、正気はありません。生の夢が続くばかりで、ここのどこに自由があり得るでしょう。都合の良い幻の中で幻を相手にはしゃぐ童子、これが塵世のしあわせの姿なのでしょうか。たしかに彼は満足しているには違いありません。そんな彼のもとに病魔が訪れます。彼の顔は青ざめます。生きるための闘いが開始されます。

この闘争の様子は独特で、病に出会った生は、生きるために生をあきらめます。生きるためにはまず現状を正確に把握しなければなりませんが、把握するためには幻想や妄想は邪魔なだけです。ただ幻想を捨てるためには、その元にある生への執着を捨てねばなりません。よって生をあきらめるというのは、まず最初には、生をあきらめ切れないが故の手段です。そしてここが特徴的なのですが、生をもしあきらめるのであれば、彼はもはや生きることにこだわりません。彼はもはや生きたいと思いません。

ここにおいて、病は当初と見え方が異なって、以前は克服すべき課題であり敵でありましたし、その人格や尊厳に注意は払われず、その話に耳を傾けようともされませんでしたが、今は共に語るよき相談相手として認められます。ここには自己の変化があります。生きたいと強く思う結果、ついに生にしがみつかない地点に到ります。総じて言えば、生きることをあきらめるというのは、あきらめさせられるということであり、病と死があるからこそ、生はへし折られます。

病気というか体調の不良という生活体験を以上のように見るとすれば、これはなにも病気に限ったことではなく、日常のあれやこれやも同様なわけで、たとえば次のような生活の感想もそうでしょう。

「わたしは罪を犯して監獄に入れられた囚人で、毎日は強制的な労働の時間で、稀に訪れる隙間時間に牢獄の小さな格子窓から灰色の空をじっと眺める。それだけの話。ああ、看守の笛が呼んでいる。もう行かねばならない」

この述懐はひとつの解釈ですが、これは現状をかように定義することで何らかの効果を期待した行動と思われます。現状を把握したいのでしょう。把握というのはつまり制御下に置くということですから、自分に力を欲しかったのだと思われます。主導権を確保したい、もっと言えば楽になりたかったのでしょう。自分は自由な暴君でありたい、しかし現実はそうではない。これが状況で、ではどう対処するかと言うと、自分の欲望を抑制することで、つまりある程度あきらめることで、状況はそのままに、その意味を改変し、もって自分が楽に生きられるようにする試みでありましょう。はじめの述懐は自分への言い聞かせであり説得です。現実についてこの特定の解釈を採用せよという要請です。自己の変容が促されています。この場合はある意味粗野な解釈であって、対話の始まりに過ぎませんが、それでも自分を揺動させ少し柔らかくする効果はあるのでもありましょう。

2025.10.19

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