しかし思いますに、わたしたちがこのような状況の中、とにもかくにもくじけずに立って歩いていられるのは、あるいはそれはどこかを目指す、そこが妥当なのかはともかく、勇敢的進行であれ、あるいはそれが道を見失った果ての立ちすくみであれ、あるいは錯乱を経た上の地に足のついた歩行であれ、何にせよ存立していられるのは、ひとえに何かがすでにある、と言いますか、何かとしてすでにある、と言いますか、何かがある、何かである、ということが認められるからではないでしょうか。それが何なのかは到底わかりませんが、何かがあることは認められる。これがわたしたちのなぐさめであり、安立の根拠なのでして、それがすでに解釈であるとしても、つまりそれがなぐさめであるか、限りない絶望であるか、それともその他であるかの可能性がすでにそこにあって、その中から選ばれた何かなのだとしても、それでも何かがあることは変わらないと思えるのは、これはとても大きなことだと思われるので、そして大きなものには自然と安心感を催すのが人情であれば、わたしたちの基底にはどこか安心に似た感情が流れているような気もいたします。
ただこれ自体がすでに壮大な勘違いであって、単なる思い込みの一種であるという疑いは離れませんので、つまりどこまで追いかけても彼我の距離は埋まらず、届いたときには遠ざかるような、掴んだ瞬間に消えてまた遠くに現れるような、そんな追いかけっこに参加して汗を流し続けるばかりで、この競技から抜け出すことも難しいのであれば、このルールの中で繰り返す他なく、走り続け、掴み続ける他なく、ただこうした構造を構造として措定して、その中でうまく振る舞うことに頭を使うことに専念するのも、どこか恥知らずな感があり、居直ることもできず、所在なさげにゲームに参加はするのが現状なので、すでにこの時点で何らかの態度の別があるのであれば、それはやはり何か共通の根本があるわけではなく、それぞれに異なる解釈がすでに始めにあるというのがもっともで、どちらが正しいかという争いが生まれたときに、これを解決するのはことわりではなく武力の多寡に過ぎなくなってしまうので、天の道がたとえどこかに転がっていたとしても、それを認識するのは解釈である以上、正しさの根拠は何らかの解釈にある他なく、そして解釈と解釈の戦いは、正義と正義の戦いになるので、決着は声の大きさによる他なく、そうであればわたしたちの主張の正当性についても同様なのですから、狂信的であることはおそらく美徳ではなく、むしろその反対に近しいでありましょう。
さて、以上の叙述からは惑乱を見て取ることができると思います。この領域には明白ではない何かがあります。明白ではないと認識する視線が問われます。安心ということをもし言うのであれば、それは不安の闇のなかでのともし火です。問題がもし明確であったとしたら、答えを求めればよいでしょう。わたしたちは探求者でも格闘家でもありません。そうした役割は与えられません。わたしたちはまずは見守る者でなければなりません。薄闇のなか、わたしたちはただ目を開けていましょう。せめてわたしたちは、自分たちの視線がどのようなものであるかくらいは、定めることができるかもしれません。
2025.09.20

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